大元ウルスへの再投降とは? わかりやすく解説

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大元ウルスへの再投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 05:30 UTC 版)

ドゥルダカ」の記事における「大元ウルスへの再投降」の解説

1296年元貞2年)秋、モンゴル高原駐屯するトトガクアルタイ山脈のウルン・ハンでドゥルダカヨブクルウルス・ブカら3王侯投降受けた。3王侯処遇について大元ウルス内部では様々な議論なされたようで、『集史』「テムル・カアン紀」によると当初オルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)はヨブクルは許すが、2度裏切ったドゥルダカ処刑にしようとしていた。しかし、前述したようにドゥルダカ投降後も大元ウルス攻めたことはないと弁明したこと、またボロカンらが投降した王侯らを敢えて厚遇することで更なる投降者を増やすべきだとする進言が受入られたことにより、3王侯は全く罪に問われることなく投降許されることになった。『集史』テムル・カアン紀によるとまずドゥルダカヨブクル先行してオルジェイトゥ・カーンの下に案内されウルス・ブカカラコルム留められて後から入朝することとされた。また、漢文史料によるとこの時ドゥルダカヨブクルらを先導したのは皇族でオルジェイトゥ・カーンの従兄弟にあたる晋王ジノンカマラで、移動にはジャムチ駅站)のモリン道であった投降後のドゥルダカヨブクルとともに再び対カイドゥ・ウルスとの戦い指揮官任命されたようで、皇族ココチュアスト将軍ウワズとともにカイドゥ側の将バアリン交戦している。なお、この時のドゥルダカは「丞相(Čingsang)」とも称されており、『集史』「コルラウト部族志」で「宰相にあった」とするのはこのように丞相地位にあったことを指すのではないか考えられている。ドゥルダカはオルジェイトゥ・カーンの死後、クルク・カーン(武宗カイシャン)の即位まで健在だったようで、即位式直後太傅地位授けられている。ドゥルダカどのような最期迎えたかは記録がない。

※この「大元ウルスへの再投降」の解説は、「ドゥルダカ」の解説の一部です。
「大元ウルスへの再投降」を含む「ドゥルダカ」の記事については、「ドゥルダカ」の概要を参照ください。

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