大元ウルス時代
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第4代皇帝モンケの側室で、シリギの母であったバヤウジンはバヤウト部の出身であり、またレビラト婚によって第5代皇帝クビライの側室にもなり、クビライとの間にはトガンを生んだ。 大元ウルスの歴史において非常に重要な意味を持つのがバヤウト部出身でオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の皇后となったブルガンであった。テムルの最初の妻のシリンダリが子供を残さず亡くなったことや、皇太子デイシュを生んだことなどにより、ブルガンはバヤウト出身の妃としてはそれまでにない非常に高い地位を有するようになった。これに加えてテムルが病弱だったこともあり、ブルガンはテムルの治世の後半において実質的に朝政を取り仕切った。 テムルが亡くなると、ブルガンは自らの地位を保つために安西王アーナンダを擁立せんと計画したが、ハルガスンらによるクーデターによってブルガンは捕縛・処刑されてしまった。そのため、ブルガンの高い地位はバヤウト部内で受け継がれることはなかったが、かえってコンギラト部のダギがかつてのブルガン同様の高い権勢を得るようになった。ブルガンの時代に始まる皇后の権勢の強化は、「大カアン位の空洞化」をもたらしたと評されている。
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大元ウルス時代
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モンゴル帝国第四代カアン、モンケはバトゥの征西に従軍した際、キプチャク草原に居住するアス人やキプチャク人を連れ帰り、前者を灤河に、後者をラオハ川に遊牧させた。移住したキプチャク人は良質な馬乳酒を産出することから「ハラチ(哈剌赤)」と呼ばれ、これが「ハラチン部」の語源となった。キプチャク人、アスト人は新参者であるが故にモンゴル人同士の内戦では躊躇なく戦うことができ、ナヤンの乱、カイドゥの乱といった戦役で功績を挙げた。成宗テムルが亡くなり、カイドゥの侵攻に対する指揮官としてキプチャク、アスト、カンクリといった軍事集団を率いていた武宗カイシャンが即位すると、これらの集団は引き立てられ、以後政治に介入するようにもなった。泰定帝イェスン・テムルの死後にはキプチャク人集団の長エル・テムルがトク・テムルを擁立して天順帝アリギバを擁する上都派を撃ち破り、帝国最大の勢力となった。しかし、エル・テムルが病死するとメルキト部のバヤンに実権を奪われ、勢力を衰えさせた。
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