大元ウルス時代とは? わかりやすく解説

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大元ウルス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 07:27 UTC 版)

バヤウト」の記事における「大元ウルス時代」の解説

4代皇帝モンケ側室で、シリギの母であったバヤウジンはバヤウト部の出身であり、またレビラト婚によって第5代皇帝クビライ側室にもなり、クビライとの間にはトガン生んだ大元ウルス歴史において非常に重要な意味を持つのがバヤウト出身でオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の皇后となったブルガンであったテムル最初の妻シリンダリ子供残さず亡くなったことや、皇太子デイシュ生んだことなどにより、ブルガンバヤウト出身の妃としてはそれまでにない非常に高い地位有するようになった。これに加えてテムル病弱だったこともあり、ブルガンテムル治世後半において実質的に朝政取り仕切ったテムル亡くなると、ブルガンは自らの地位を保つために安西アーナンダ擁立せんと計画したが、ハルガスンらによるクーデターによってブルガン捕縛・処刑されてしまった。そのため、ブルガンの高い地位バヤウト部内受け継がれることはなかったが、かえってコンギラト部のダギがかつてのブルガン同様の高い権勢を得るようになったブルガン時代に始まる皇后権勢強化は、「大カアン位の空洞化」をもたらした評されている。

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大元ウルス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:33 UTC 版)

ハラチン」の記事における「大元ウルス時代」の解説

モンゴル帝国第四カアンモンケバトゥの征西従軍した際、キプチャク草原居住するアス人やキプチャク人連れ帰り前者灤河に、後者をラオハ川に遊牧させた。移住したキプチャク人良質な馬乳酒産出することから「ハラチ(哈剌赤)」と呼ばれ、これが「ハラチン部」の語源となったキプチャク人アスト人は新参者であるが故にモンゴル人同士内戦では躊躇なく戦うことができ、ナヤンの乱カイドゥの乱といった戦役功績挙げた成宗テムル亡くなりカイドゥ侵攻対す指揮官としてキプチャクアストカンクリといった軍事集団率いていた武宗カイシャン即位すると、これらの集団引き立てられ以後政治介入するようにもなった。泰定帝イェスン・テムル死後にはキプチャク人集団の長エル・テムルトク・テムル擁立して天順帝アリギバ擁する上都派を撃ち破り帝国最大勢力となった。しかし、エル・テムル病死するメルキト部のバヤン実権奪われ勢力衰えさせた。

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