捕縛・処刑とは? わかりやすく解説

捕縛・処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 14:16 UTC 版)

ウィリアム・ウォレス」の記事における「捕縛・処刑」の解説

ウォレススコットランド帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃受けたエドワード1世は「大逆者」ウォレス捕らえよう血眼になり、賄賂脅迫によってウォレス部下たちにウォレス対す裏切り仕向けた1305年8月5日ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティス(英語版の裏切りにあってイングランド引き渡された。 その後17日間かけてカーライル城英語版)を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や市中引き回しにされた。エドワード1世勝利を印象付けようという狙いだった。 8月22日ロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔送られる予定だったが、ウォレス捕縛一目見よう雑多な群衆集まってきてロンドン塔までの道が塞がれたため、フェンチャーチ通りにある市参事会員の館に預けられ、そこで一晩監禁された。 翌日ウェストミンスター宮殿ウェストミンスター・ホール英語版)へ連行され、そこに召集され法廷裁判かけられた。審理中、月桂樹王冠を被らされて嬲り者にされた。裁判官のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世への大逆罪問われたが、裁判ウォレスは「自分イングランド王忠誠誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した。 しかし有罪判決下り判決後には2頭の馬の尻尾結わえられ、平民用処刑地のあるスミスフィールドまでの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミ投げつけられた。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された。遺体の首はロンドン橋串刺しとなり、4つ引き裂かれ胴体イングランドスコットランドの4箇所ニューカッスルベリックパースアバディーン)で晒し物とされた。 エドワード1世としてはウォレス残虐刑を課すことでスコットランド抵抗運動恐怖抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった。逆にスコットランド国民感情鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世スコットランド支配崩れ去ることになる。

※この「捕縛・処刑」の解説は、「ウィリアム・ウォレス」の解説の一部です。
「捕縛・処刑」を含む「ウィリアム・ウォレス」の記事については、「ウィリアム・ウォレス」の概要を参照ください。

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