捕縛と拷問、流刑先での死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 16:04 UTC 版)
「聖マクシモス」の記事における「捕縛と拷問、流刑先での死」の解説
皇帝コンスタンス2世は、自身の推す単意論とその勅令、及びその支持者であるコンスタンティノポリス総主教達が弾劾された教会会議の結論を知ると、653年ローマ教皇マルティヌス1世を捕え、クリミア地方へ流刑に処した(マルティヌス1世は2年後に流刑先で死去)。その後マクシモスも捕えられる。 幾度かマクシモスの監禁場所を変えつつ、皇帝は使者を送ってマクシモスに単意論に与するよう説得を試みたが、これが成功しないどころか、時には皇帝の使者まで逆にマクシモスに説得されて単意論を捨てる有様であった。度重なる説得も成功しないことにより、皇帝は怒り、説得を断念。拷問が始まり、反逆罪とされたマクシモスに対する有罪を証明するための証言を求められて召還されたマクシモスの弟子達も、証言を拒否したため拷問を受けた。 マクシモスはさらに激しい拷問を受け、二度と演説と著述が出来ないように舌を抜かれ右手を切られた。弟子の一人アナスタシオス(アナスタシイ)[要曖昧さ回避]も同様の刑に処された。その後マクシモスは、弟子アナスタシオスと共にコーカサスに流刑となった。二人は拷問の際の苦痛のため歩く事が出来ず、車に乗せられて送られたが、アナスタシオスは途中で絶命した。 マクシモスはその3年後(662年8月13日)、流刑先で死去した。永眠直前にはキリスト(ハリストス)がマクシモスに現れたり、墓の上には3本の燃える蝋燭が現れたり、墓での病人の癒しが起きたりするといった奇蹟が起きたとされる。 マクシモスの両意説が正統として確立されたのは、680年-681年の第3コンスタンティノポリス公会議においてであった。
※この「捕縛と拷問、流刑先での死」の解説は、「聖マクシモス」の解説の一部です。
「捕縛と拷問、流刑先での死」を含む「聖マクシモス」の記事については、「聖マクシモス」の概要を参照ください。
- 捕縛と拷問、流刑先での死のページへのリンク