捕縛まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 07:41 UTC 版)
崇禎6年(1633年)に生まれる。明が滅亡した際は11歳だったが、宮殿を落ち延びて流浪の日々を過ごす。13歳の時に鳳陽という土地に辿りつき、その地の郷紳でかつて明の官吏であったと称する王という老人に匿われ、王姓を名乗った。王の病没後は剃髪し、僧籍に入ることで余生を平和に過ごしていたようである。その後、同じく明の官吏であった余姚の胡という人物の娘を妻として迎えて還俗している。胡氏は裕福な家の娘ということもあり教養に秀で、夫婦2人で家で私塾などを開いていたため、家は常に人の出入りが盛んだったという。 康熙44年(1705年)にささいな事件から告発があり、身の危険を感じた朱慈煥は逃亡生活に入るが、3年後の康熙47年(1708年)に山東で捕縛され、審問を受けるために北京に移送された。この時、朱慈煥は既に75歳を過ぎていた。
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