捕縛後
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翌29日、五郎は頼朝による尋問を受ける。 鎌倉殿この由を聞き食されて、「これ聞き候へや、各々。哀れ(あっぱれ)男子の手本や。これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず。(中略)助けばや」と仰せらるれば…(巻九) その堂々とした振る舞いを見た頼朝は「哀れ(あっぱれ)男子の手本や。これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず」と称賛する。その上で頼朝は「助けばや」と助命を提案する。 梶原これを承て(中略)「彼ら成人仕り候ひなば、自今以後も狼藉出来し候ひなん(中略)」と申されければ、さてこそ五郎時宗は切られべきに定まりけれ(巻九) 助命を提案した頼朝に対し、梶原景時は今後の狼藉を案じ処刑するよう諫言したため、処刑と定められる。 その後、十郎が首を実見せられける。(中略)新田四郎忠綱は、十郎が最後に着たりける村千鳥の直垂に赤銅作の太刀をば童に持たせて参りたりければ、鎌倉殿これを御覧じて、「あれはいかに。一定助成が衣装か」と問はせ給へば(中略)「さ候」とばかり申しける。(中略)鎌倉殿、御目に御涙を浮べさせ給ふをさらぬ体にて押し揮せ給ひて…(巻九) その後、十郎の首実検が行われた。新田忠常は十郎が身につけていた村千鳥の直垂と赤銅作りの太刀を童に持たせて参上し、頼朝はこれを御覧になった。頼朝はこれが確かに助成の衣装であるのかを問うと、五郎は「さ候」と辛うじて答えた。その様子を見た頼朝は遂には感涙する。その後、五郎の処刑は筑紫の仲太がその場で執行した。
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捕縛後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:56 UTC 版)
7月に安芸郡で郷士・清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人によって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処された。この頃より監察府の陣容が一新され、小笠原唯八・乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。 この時、平井善之丞の甥である乾退助は、役務上、取調べを行わざるを得なかったが、退助も勤王派であったためきつく尋問する事には消極的であった。退助が武市を尋問したのは一度きりで「土佐勤王党の首領である武市から犯人の名を明らかにさせ、他はあまり深く究明しないつもりである」と述べている。当時の状況から、武市の関与があったかは曖昧で、証拠不充分で武市自身は釈放されると退助を含め多くの人から考えられていた。退助は半平太に同情的であったため藩庁の意見と合わず、ついに国許土佐での役職を干されて江戸での騎兵術修行を申し付けられ、遠避けられてしまう。監察府の陣容一新の噂を耳にし、これまで以上の厳しい追及を覚悟した半平太は盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、それぞれ妻と姉に送った。
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