捕縛から処刑まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/17 11:54 UTC 版)
鶉権兵衛は、延宝から天和期(1673 - 83年)にかけて、総勢10人ほどの盗賊団を率いて江戸を荒らしまわった。当時、10組ほどの盗賊集団が世に知られていたが、他の盗賊団は盗みに入った後に証拠隠滅や逃げ道確保のために放火をした。しかし、権兵衛は強盗に入る前に、別の場所に放火して火付盗賊改方をそちらに引き付け、その間に狙いをつけた場所に押込強盗をしてすばやく姿をくらますという手口で何度も裏をかいてきた。 しかし、火盗改の中山勘解由によって、天和3年6月に権兵衛は一味の者とともに捕縛された。作兵衛・長兵衛という二人組と合わせ計7名の火付盗賊犯を捕らえた勘解由は、権兵衛から盗賊仲間や居所などの情報を得るため、過酷な拷問を行った。ここで勘解由は、考案した海老責という拷問を初めて試した。権兵衛は責めに屈して、ついに白状したが『御仕置裁許帳』には「去年(天和2年、1682年)12月28日と今年(1683年)正月に谷中の火事の際、各所へ火を付けたことを白状した」という簡単な罪状だけが記されている。 天和3年10月12日、権兵衛は、手下の亀之助・猿之助(えんのすけ)、小姓廻し・何右衛門(かえもん)、市六・長兵衛の3人とともに品川の鈴ヶ森で火あぶりの刑となった。なお、権兵衛とともに捕らえられた作兵衛・長兵衛の二人組も、この日、浅草寺経堂に放火した咎で浅草の小塚原で火あぶりになっている。
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