捕縛と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 12:01 UTC 版)
「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事における「捕縛と死」の解説
スティエパン・トマシェヴィチの予想に反し、ボボヴァチは数日で陥落した。ここに至って、スティエパン・トマシェヴィチはクロアチアかダルマチアに逃げるほかに道はないと気づいた。しかしアンジェロヴィチ勢の執拗な追撃を受け、ついにクリュチで追いつかれた。伝承によれば、オスマン軍は当初この町の城壁の内側にボスニア王が潜んでいることに気づかず、要塞を通り抜けようとした。しかし現地人が金と引き換えにスティエパン・トマシェヴィチの居場所を暴露したのだという。4日間の包囲戦の間、アンジェロヴィチはスティエパン・トマシェヴィチのもとに使者を派遣し、降伏すれば危害を加えないと約束し、自由を保障する証書まで送ってきた。食料も弾薬も尽きかけていたため、スティエパン・トマシェヴィチは街の守備兵と共にアンジェロヴィチに降伏することを決めた。アンジェロヴィチは、スティエパン・トマシェヴィチとその叔父ラディヴォイ、またその子でスティエパン・トマシェヴィチの従弟にあたるトヴルトコの身柄を、ヤイツェにいるメフメト2世のもとに送った。 スティエパン・トマシェヴィチはメフメト2世に取り入るべく、ボスニア各地の将軍や城主に降伏を促した。その結果、一週間の間に70以上の街がオスマン軍の手に落ちた。ところがメフメト2世にはスティエパン・トマシェヴィチを助命する意思はなく、5月25日に彼を召喚した。スティエパン・トマシェヴィチはアンジェロヴィチから受け取った書類を恐る恐る持参したが、メフメト2世につかえるペルシア出身の神学者アリ・アル=ビスタミが、「スルターンは知らぬうちに家来が結んだ約束には囚われない」というファトワーを出し、アンジェロヴィチの安全保証を無効化した。そしてこの老神学者は、自らのファトワーの正当性を証明するかのように、自ら剣を抜いてメフメト2世の眼前でスティエパン・トマシェヴィチを斬首した。なおメフメト2世の従者であったという年代記者ベネデット・デイは、メフメト2世が自らスティエパン・トマシェヴィチの首をはねたと記録している。後の文献には、メフメト2世がスティエパン・トマシェヴィチを皮剥ぎの刑にしたとか、射撃の的にしたという説も出てくる。スティエパン・トマシェヴィチやその叔父、従弟、2人の貴族の処刑が行われたヤイツェの広場は、これ以降ツァレヴォ・ポルイェ(「皇帝の広場」の意)と呼ばれるようになった。
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