捕縛と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 08:51 UTC 版)
1931年9月11日、ムフタールはスロンタ(英語版)での戦闘で負傷し、イタリア軍に捕縛された。グラツィアーニはムフタールを「現地民の英雄的指導者」として扱い、治療を施した。治療を終えたムフタールは駆逐艦でベンガジに移送された。報告を受けたバドリオは9月14日に「ムフタールの死を抵抗運動壊滅の象徴とするため、直ちに公開処刑せよ」とグラツィアーニに指示した。 これに対し、「バドリオの命令は戦争捕虜の地位を無視した違法なもの」という部下の意見を受け入れたグラツィアーニは、ゲリラ活動と停戦合意後のイタリア兵殺害の罪でムフタールを裁判にかけ、9月15日に死刑判決が言い渡された。死刑判決が言い渡された後、ムフタールはベンガジから56キロメートル南方のソルーク(イタリア語版)に移送された。 9月16日午前9時、ムフタールはクルアーンの一節「私たちは神のものであり、私たちは神に還されなければならない」を唱え、民衆の目の前で絞首刑に処された。ムフタールの死後、抵抗運動は衰退し、1932年にリビアはイタリアに平定された。
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