逃亡生活
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逃亡中の平田を匿っていたのは3歳年上の元女性信者で、14年以上にわたって大阪府内でともに生活していたという。福島県出身で、1980年代に東京で看護師の資格を取得、のち勤務していた病院を1993年に退職したうえでオウム真理教へ入信、教団の「治療省」に所属していたものの、1995年の地下鉄サリン事件後に行方がわからなくなっていた、という素性の人物であった。検察によれば、元教団看護師にあたるこの女性は、1995年に平田の誘いで逃亡生活に入って以後、東北地方を転々としたのち、1996年に大阪市へ、さらに1997年から東大阪の整骨院に偽名で勤務しながら平田の生活を支え続けていたという。2012年に犯人蔵匿罪で1年2ヶ月(求刑懲役2年)の実刑判決。
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逃亡生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 16:03 UTC 版)
ダーラー・シコーは大急ぎでアーグラへと逃げたが、父の厳しい言葉を思い出して、会おうとはしなかった。だが、シャー・ジャハーンは彼を見捨てようとはせず、信頼する宦官を使者に、自分が彼を愛していること、そして「お前には立派な軍隊とスライマーン・シコーがいるのだから、まだ絶望する理由は何もない」と諭すように言った。 ダーラー・シコーは父親の言葉を伝え聞いたのちも、シャー・ジャハーンに人を遣わす気にもならず、仲よくしていた姉のジャハーナーラー・ベーグムに何度か使いを出したのち、シピフル・シコーや3、400人の供を連れて真夜中のうちにアーグラを出たという。 それからまもなく、6月にアウラングゼーブが父シャー・ジャハーンを幽閉した。7月にはムラード・バフシュも同様に裏切って投獄し、その月の末にデリーで皇帝を宣言した。 8月、ダーラー・シコーはラホールで兵を招集しようとしていたが、アウラングゼーブは自らダーラー・シコーの追撃にあたり、彼はやむなくムルターンへと逃げた。だが、アウラングゼーブは執拗に追撃してきたため、ムルターンもまた放棄せざるを得ず、シンド地方のインダス川の中にあるタッタ・バカルの陣地に入った。 ダーラー・シコーはタッタ・バカルの要塞に着いたあと、そこに数日足を止めて、2000~3000人の兵を連れてインダス川に沿ってシンド地方を下り、グジャラートのアフマダーバードに付いた。そこには、シャー・ナワーズ・ハーンと言うサファヴィー朝の流れを組む人物が町の長官を務めていた。ダーラー・シコーはシャー・ナワーズ・ハーンの歓迎を受け、彼もまたジャスワント・シングらからの手紙を見せていたが、側近からは彼は裏切ると忠告を受けた。 アウラングゼーブはアフマダーバードにいるダーラー・シコーを攻撃しようか考えていたが、11月になるとシャー・シュジャーがアーグラへと進撃しているという報告を聞き、大急ぎで踵を返した。その間、ダーラー・シコーは寄せ集めではあったが、多くの兵員を擁する軍勢を作り上げていた。また、ジャスワント・シングからはできるだけアーグラに早く向かい、自分も途中で合流するという旨の手紙が送られてきので、1659年2月に彼はアフマダーバードを発ち、アーグラへの行程であるアジメールへと向かった。 だが、ジャスワント・シングが動くことはなかった。先にスライマーン・シコーを裏切ってアウラングゼーブについていたジャイ・シングが、ダーラーに味方することは危険だと手紙を何度も送っていたからであった。また、シャー・ナワーズ・ハーンもダーラー・シコーに味方するふりをして、じつはアウラングゼーブと内通していた。 同年3月、ダーラー・シコーの軍はアウラングゼーブの軍とアジメールで戦闘状態となった。ダーラー・シコーの軍勢は裏切りで瞬く間に不利になったが、そのとき敵であるはずのジャイ・シングが人を遣わし、今ここで捕まりたくないのなら逃げるべきだといい、退却を進言した。 結局、ダーラー・シコーは2,000の兵を連れて戦場を離れ、途中農民らに襲われながらもアフマダーバードに逃げたが、そこで町を預かっている人物に入城を拒否された。
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