ナポレオンとチロル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:53 UTC 版)
ナポレオン戦争中、1803年のリュネヴィルの和約によって両司教は世俗の領主権を否定され、両司教領はティロル伯の称号を有するハプスブルク家(オーストリア)に与えられた。1805年にアウステルリッツの戦いでオーストリア帝国が敗北すると、同年のプレスブルクの和約によってフランス帝国の同盟国であるバイエルン王国へ割譲された。しかし頑固で誇り高いことで知られるチロル人はこの決定を良しとせず、1809年にアンドレアス・ホーファー(英語版)を指導者として蜂起し、フランス・バイエルン連合軍を2度にわたって破った。ホーファーは3回目の戦いに敗れて捕縛・処刑されたものの、現在でもチロルのみならずオーストリア全土で英雄として讃えられている。 結局バイエルンによる支配は長続きせず、1810年に南チロルはナポレオンのイタリア王国に譲渡される。ナポレオンの没落後、ウィーン会議によってチロルはオーストリア帝国へ復帰した。
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