ナポレオンから1866年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 16:07 UTC 版)
「ゲッティンゲン」の記事における「ナポレオンから1866年まで」の解説
ナポレオン・ボナパルトが引き起こした戦争では、ハノーファー選帝侯領は1803年に戦うことなくフランスに占領された。しかし、ゲッティンゲンは占領やその他の負担を免除された。これには大学の高い名声が影響している。1805年にハノーファー選帝侯領は突然プロイセン領となった。ゲッティンゲンはプロイセン軍によって占領された。 1807年のティルジットの和約以後、ハノーファー選帝侯領は地図から消滅した。ゲッティンゲンは、ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが治める、カッセルを首都とするヴェストファーレン王国に属すこととなった。ヴェストファーレン公国内では、ゲッティンゲンはライネ県の首邑となった。このため、中央機能を有する官庁や裁判所の所在地となった。知事庁舎はミヒャエリスハウスに置かれた。外国人による支配は、次第に圧迫感のないものになっていった。学生数は初期に減少した後安定しており、ゲッティンゲンは1813年まで続くフランスによる支配に順応していった。ドイツにおけるフランス支配が瓦解した後、旧ハノーファー選帝侯領はハノーファー王国に昇格した。ゲッティンゲンは、1823年から新しく設けられたヒルデスハイム管区に属した。 1807年にカール・フリードリヒ・ガウスが大学天文台の責任者となった。彼は現在では世界で最も尊敬される数学者の一人に数えられている。 ドイツで興った国家主義運動は政治上、自由主義化や民主主義化の要求とともに流布した。1830年のパリの7月革命がドイツにも波及し、1831年にゲッティンゲンでいわゆる「ゲッティンゲン革命」が起こった。ハノーファー王国は平穏なままであったが、ゲッティンゲンでは様々な原因で暴力沙汰が勃発した。これに続いて大学の臨時講師ヨハン・エルンスト・アルミニウス・フォン・ラウシェンプラットを首班とする革命議会が発足し、1831年1月8日にゲッティンゲン市の市参事会は廃止された。革命議会は王に対して、ハノーファー王国からの自由と統治機構の解体を要求した。政府は譲歩せず、大規模な軍隊を市に派遣した。1月16日に反乱者は降伏せざるを得なくなった。軍隊が市内に侵攻し、これを占領したためである。反乱の暴徒らは、国外に逃亡することができず、厳しい処罰が申し渡された。3月初め頃にはゲッティンゲンに再び平穏が訪れた。1月18日に政府によって閉鎖されていた大学は、4月半ばに再開された。この反乱の結果、政府は市の行政機構の徹底的な改革を行い、1690年から続いた旧来の行政機構が刷新された。何世紀にもわたったギルドの政治的役割は終結し、市民の尊敬を集める代議士がその地位を占めた。 大学開設から100年後の1837年に、大学の催事場兼管理棟として講堂が完成した。その前にある広場(現在のヴィルヘルム広場)には、当時の領主で講堂の施主であるヴィルヘルム4世の記念碑が建てられた。その後継者で、123年続いたブリテン王国とハノーファー王国の同君連合が解消されることとなったハノーファー王エルンスト・アウグスト1世の下で、同じ1837年に対立が起きた。彼の登位に伴い、前王が1833年に発布した比較的自由な制度が撤廃された事に対して7人のゲッティンゲン大学教授が抗議を唱えたのである。エルンスト・アウグスト1世は同年12月12日にこれらの教授を罷免し、さらにそのうち3人を国外に追放した(ゲッティンゲン七教授事件)。この事件はハノーファー王国内のみならずドイツ全土で大きな反響を呼んだ。「ゲッティンガー・ジーベン」(ゲッティンゲンの7人)と名付けられた彼らは、政治に敏感になった市民達にとって殉教者のような存在となったのである。抵抗運動は反王制思想を揺り動かした。市民の抵抗運動は部分的には成功した。1840年8月6日の国家基本法でハノーファー王国は立憲体制に戻されたが、それは身分権利が君主に不利にならないように調整されたものであった。ゲッティンゲンにはすぐに平穏が戻ったが、すでに1820年代から減少していた大学の学生数はさらに減り、その威信を喪失した。 体制闘争後、政治的自由による緊張緩和はほとんど見られなかった。集会は届け出る必要があり、貸本屋は監視され、追放された教授達は1848年までゲッティンゲンに戻ることはなかった。大学に所属する者はゲッティンゲンを支配していた厳しい政治状況を大学にとって不都合なものだという立場を取った。 ドイツ各地で暴動が起きた1848年の3月革命において、ゲッティンゲンでは大規模な流血事件は起こらなかった。3月11日から12日にかけての夜中に警察と数人の組合学生との間で小競り合いがあっただけであった。その後、抵抗運動に参加した学生達はこの街から去って行った。そうでなくても学期の終わり近くであったため、この退去は不自然なものであった。ゲッティンゲンでは革命機関として市民集会や市民防衛隊が組織された。しかし年末までにはこれらも解体され、政治問題化は回避された。 3月騒乱後の時期はゲッティンゲンにとって、どちらかといえば平穏な時期であった。政治運動はそれ以前に比べて沈静化しており、1850年代はゆったりとした快適な時代として記述される。この時代の街の発展について特筆すべき日付が1854年7月31日である。この日、アルフェルトからゲッティンゲンへの鉄道が開通し、ゲッティンゲン駅が壮麗な式典とともに落成した。ゲッティンゲンも近代化に大きく歩を進め、人口は増加し、企業がゲッティンゲンに拠点を構え、中世の土塁の外側にも新しい住宅地が成立した。 市と君主(1851年以降はゲオルク5世)とは、依然、緊張関係にあった。王がこの街を訪問することは滅多になく、来た場合にも尊大な態度を崩さなかった。ゲオルク王はゲッティンゲン市民に対して不信感を抱いており、対立者として危険視していた。ゲッティンゲンには意思疎通のできない君主に対する反乱の計画などはなかったのだが、1866年6月22日にプロイセン軍がゲッティンゲンに入り、ランゲンザルツァの戦いの直後ハノーファーがプロイセンに併合された際にもプロイセン化に対する本格的な反対運動はなかった。
※この「ナポレオンから1866年まで」の解説は、「ゲッティンゲン」の解説の一部です。
「ナポレオンから1866年まで」を含む「ゲッティンゲン」の記事については、「ゲッティンゲン」の概要を参照ください。
- ナポレオンから1866年までのページへのリンク