ナポレオン3世への誘惑
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「ヴィルジニア・オルドイーニ」の記事における「ナポレオン3世への誘惑」の解説
トスカーナ大公国のオルドイーニ侯爵の娘としてフィレンツェに生まれた。ニックネームの"Nicchia"で知られていた。17歳の時、カスティリオーネ伯爵と結婚し、1子をもうけた。 1855年にフランスへ向かい、同年12月25日、夫と子供を伴いパリに到着し、テュイルリー宮殿ないしサントノレ通り界隈カスティリオーヌ通り (fr) 10番地に居住した。翌1856年1月9日、マチルド・ボナパルト王女主催のバルでナポレオン3世に出会う。マチルドと対立関係にあったウジェニー皇后は出産のため欠席していた。 ナポレオン3世とは、1856年から1857年4月までの間、愛人ないし愛妾関係が続くが、皇帝と伯爵夫人は偽装結婚をし、この姦通は宮廷スキャンダルになった。イタリアの寵姫カスティリオーネの名前が醜聞となることで、夫の要求で別居し離婚に等しい状態となった。カスティリオーヌ通りにある豪華な館を引き払わざるをえず、帰国したイタリアでは、妻が作った借金を返済するためにすべての財産を売却しなければならなかった。 2年間の関係でしかなかったにもかかわらず、根拠のない噂や世間話によると、カスティリオーネ伯爵夫人は1862年に皇帝の非嫡出子である、後に歯科医になるアーサー・ヒューゲンシュミット(アルチュール・ユーゲンシュミット, fr) の母親であると言われる。のちに、下記のように彼女に熱狂したロベール・ド・モンテスキュー伯がヒューゲンシュミットへの詩で触れている。 伯爵夫人は、ナルシストで自己陶酔的、あるいは気まぐれで、皇帝が宮廷秘密資金から提供する贈り物を公に誇ったりしたが、皇帝が自分自身を無愛想にし、新しい愛人マリアンヌ・ヴァレフスカ伯爵夫人 (Comtesse Marianne Walewska) に心変わりした皇帝を相手にすることに疲れた。 また、このような形で欧州王室社交界にデビュタントをしたため、半社交界の婦人 (ドゥミ=モンデーヌ, Demi-mondaine) ないしクルチザンヌとも括られる。けれども伯爵夫人ヴィルジニアは、従兄にあたるカヴールに依頼されナポレオン3世の愛人となり、別れた後もその影響力でフランスとサルデーニャとの同盟関係(1858年7月のプロンビエールの密約)に結びつけたと主張していた。 ナポレオン3世との関係が続く間、というよりこのスキャンダルのおかげで、彼女は後に普仏戦争により"統一ドイツ皇帝"となるヴィルヘルム1世の王妃アウグスタ・フォン・ザクセンやプロイセン宰相ビスマルク、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエール、その他当時の大物王侯貴族らと接触することができた。
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