クルチザンヌ
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クルチザンヌ[1]、ないし、クルティザンヌ[2]、クルティザン[3](フランス語: courtisane)は、フランス語で高級娼婦を意味する表現[4]。特にロマン主義の文学作品などで主題としてしばしば取り上げられた[1]。
- ^ a b 村田、2003a, b.
- ^ “裏社交界の華、クルティザンヌ(高級娼婦)”. 兵庫県立芸術文化センター (2015年3月31日). 2016年5月9日閲覧。
- ^ a b 有川治男. “ヘラルト・テル・ボルフ:父の訓戒 - 多くの主題解釈を許す優雅な風俗画”. 学習院大学. 2016年5月9日閲覧。 “そもそもヨーロッパでは、「高級娼婦」を意味する言葉(クルティザン、クルティザーネなど)は、「宮廷婦人」という言葉から生じているのである。”
- ^ a b 村田、2003a、pp.3-4.「「娼婦」は、一般的な用語としては《prostitute》と《courtisane》という二つの語に還元できる。… 《courtisane》は、 イタリア語の cortigiano −ana(「宮廷」corte がその語源)から来た言葉で、《courtisan》「宮廷人、 廷臣」の女性形である《courtisane》も本来は、 宮廷に関わりのある女性を意味していた。しかし、まもなくそれは、王侯貴族など上流階級の者を相手にする娼婦と同意語になり、「高級娼婦」を表すようになった。《courtisane》は、もともと良家の出で、教育や礼儀作法をきちんと身につけた女性のことで、例えばフランス国王アンリ2世の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワチエのような美貌と知性を兼ね備えた女性が《courtisane》と呼ばれた。彼女たちは、自宅に政界の有力者や優れた芸術家などの崇拝者を集めて、社交の中心となり、場合によれば、政治的なカも有するようになった。 従って、単に生理的欲求を満たすだけの《prostitute》と、 宮廷風の恋愛を楽しむ《courtisane》は、 全く異なったニュアンスで捉えられていた。」
- 1 クルチザンヌとは
- 2 クルチザンヌの概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
クルチザンヌ
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「シャルロッテ・スロッツベリ」の記事における「クルチザンヌ」の解説
シャルロッテは、バレエダンサーとしてだけではなく、一級のクルチザンヌとしても知られており、経済面で恩恵をもたらした裕福な愛人が何人かいたことが分かっている。母と母方の叔母2人も娼婦であったと伝わっている。すでに1774年、14歳のときにオーストリア大使のヨーゼフ・クレメンス・フォン・カウニッツ=リートベルク伯爵の愛人であったとされ、これは父の借金を助けるためであったと伝えられている。他の愛人としては政治家のフレドリク・シュパラー伯爵とカール・ウィルヘルム・シーレが知られており、さらに貴族や政治家、外交官が何人かいたという。 1777年からグスタフ3世の弟セーデルマンランド公カールの愛人であり、これはすべての愛人のうちで最も有名な人物である。その関係は約20年に渡って付いたり離れたりしながら続いたが、スキャンダルとしてカールの評判に影を落とすこととなった。カールの弟フレデリク・アドルフの愛人でバレエ団の同僚でもあったソフィー・ハーグマンとは異なり、シャルロッテはクルチザンヌとしての評判のために宮廷に出仕したり公妾の地位を認められることは決してなかった。シャルロッテとカールの関係は、ハーグマンとフレドリク・アドルフとの関係とは異なり、決して公的に認められるものではなかったのである。なぜならカールはシャルロッテと愛人関係にある間だけでもシャルロッテ・エッカーマンやフランソワーズ=エレオノーレ・ヴィランなどと関係を持っていたし、シャルロッテ自身もカール以外によく知られた愛人が何人もいるなど、どちらも複数の愛人を抱えていたからである。しかし、それにもかかわらずシャルロッテはカールの「ハーレム」の「お気に入りのスルタネス」と呼ばれ、カールは必ず最後にはシャルロッテの元に戻ってきた。ヨハン・マグヌス・アフ・ノルディンはシャルロッテを「側室、公爵副夫人または摂政夫人」などと呼んだ。 シャルロッテは、カールへの影響力のために敵意を集めることになった。シャルロッテはカールの文化への興味を目覚めさせて戯曲を書くよう勧め、共にシャンパンを嗜もうと誘い、カールが落ち込んだときには元気づけたと言われている。1790年にはカールによい影響を与える見返りにグスタフ3世から手当を与えられたと噂され、カールの妹ソフィア・アルベルティーナの1790年4月13日付の手紙では「彼(カール)はまったく盲目で、汚らわしいスロッツベリ、彼を支配してこれらすべての愚かしい行いをさせる女に籠絡されている。彼女は王から年金を与えられて買収されており、王は公にして欲しいことのすべてを彼女に伝えるのだ。」と言及されている。 シャルロッテが持つカールへの影響力に対する嫌悪は、1792年から1796年にかけてカールが国王に即位した甥グスタフ4世アドルフの摂政だった時期により激しくなった。カールの摂政の地位は名ばかりで、実権はグスタフ・アドルフ・ロイターホルムにあったが、シャルロッテがロイターホルムに会ったことがあるか、あるいは実際に影響力を持っていたかどうかは不明ながら、その名前が政治討論で言及されることもしばしばあった。極めて不人気な奢侈禁止令が出されて絹とコーヒーが禁止されたとき、世論は上流階級がこの法律を無視していることをあげつらい、「スロッツベリとレフ(エウフロシーネ・レフ。フレドリク・アドルフの愛人)が絹やありとあらゆる装飾品を身に着けている限り、ストックホルムではこういった品物は禁止されるべきでない、と声高に叫ばれていた」。摂政カールに対する陰謀の罪で有罪とされたマグダレナ・ルーデンショルドがさらし台に架けられた際には、群衆から代わりにシャルロッテ・スロッツベリを立たせるべきだと声が上がったと伝えられ、シャルロッテの馬車が襲撃される事件が起こった。 カールはシャルロッテに名誉称号Överfataburshustruを与えた。これは宮廷でリネンや織物の管理を行う、貴族ではない女性に与えられる官職である Fataburshustru の長という意味であるが、実際のところ何か実体があるわけではなく、単なる称号に過ぎなかった。さらに1795年、カールは宮廷にお披露目された貴婦人に許される7つのガラス窓を備えた馬車をカールの衛兵付きで使うことをシャルロッテに許した。これに公妃ヘートヴィヒ・エリーザベトが大いに抗議してスキャンダルとなり、宮廷にはシャルロッテに対する嫌悪感が広がった。カールは摂政としての立場からシャルロッテとの関係を人目に付かないようにせざるを得なくなり、この形の馬車や自らの従者を使わせることを諦めた。 その後、1797年にシャルロッテとカールの関係はついに終わった。
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