クルチェフスキー砲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:18 UTC 版)
ソビエト連邦では1920年代から1930年代前半にかけてデイビス砲を参考に同様の構造が研究され、"Динамо Реактивных Пушек"の名称で大口径から小口径まで多様な無反動砲が開発された。それらは開発を主導した技術者の名から「クルチェフスキー砲」と通称される。 ソビエトで研究されたものは、作動方式はデイビス式を参考にしているが、クルップ式に先駆けてカウンターマスではなく燃焼ガスを後方に噴出する方式を主流としている。ただし、燃焼ガス利用ではあっても砲尾にクルップ式のような密閉型の閉鎖機構を持たず、噴出するガスを加速するためにある程度の後方砲身(に相当する部分)を必要とする、という点で異なり、設計思想としてはデイビス式の発展型である。 ソビエトにおいて無反動砲の開発を主導した、レオニード・ヴァシリエーヴィチ・クルチェフスキー(Леонид Васильевич Курчевский)(英語版)は1923年からこの"Динамо Реактивных Пушек"の研究を始め、1930年からは砲兵総局内に専門部局を得て本格的な開発を行った。口径37 mmから420 mmまで多種の物が開発され、砲単体の他に戦車を始めとした車両に搭載したものが多種類開発された他、特に航空機に搭載する大口径火器として研究された。これらを搭載した航空機としては、既存の航空機の機外装備として搭載したものの他に、左右の主翼下に76mm無反動砲を搭載したグリゴロヴィッチ I-Z単発戦闘機(ロシア語版)、胴体下部に102mm無反動砲を搭載したツポレフ ANT-29 双発戦闘機(ロシア語版)や、プッシュプル方式(串型配置)として左右のテイルブーム部に76mm無反動砲を内蔵した特異な構成の双発戦闘機であるツポレフ I-12(ANT-23)(ロシア語版)といった専用の搭載機も開発された。水上戦闘艦に搭載するものとしては、実際に製造されたものでは2018年現在でも最大の無反動砲である305mm砲が試作され、オルフェイ級(英語版)駆逐艦エンゲルス(ロシア語版)に搭載されて実射試験が行われている。 しかし、多種が開発・試作され、制式採用されて部隊配備も行われたものも存在するが、いずれも「満足な性能を達成できていない」もしくは「実用性に難がある」という評価にしかならなかった。ソビエトはドイツ他に比べて成形炸薬弾の実用化が遅れたため、これを弾頭に用いていない無反動砲は構造上ゆえの初速の低さから「同口径の通常の火砲に比べて破壊力、特に装甲貫通力が低い」ものにしかならず、「装薬(発射薬)を過大に消費するにもかかわらず低威力である」という存在にしかならなかったためである。ソビエトで開発された陸戦用/航空機搭載用の無反動砲はいずれも砲身を中央部で分割するか砲の後端を開閉する方式で、艦艇に搭載する大口径のものは砲口もしくは砲尾の噴射口から弾頭と薬嚢を押し込む方式だったが、いずれにしても再装填には手間と時間がかかり、速射性を求めるソビエトの砲兵ドクトリンに合致していなかった。このため、前記の「同口径の通常の火砲に比べて威力が低い」上に「発射速度が低すぎて単位時間あたりの投射弾量が少ない」という点で、二重に「火力に乏しい」という評価がなされることになった。後者に関しては自動装填装置が開発されたが、機構が増えて構造が複雑になるために「反動がないために砲架は簡略なものでよく、全体の重量も小さく済む」という無反動砲の利点を失っている上、特に砲身分割式用のものは複雑な構造で作動が不安定かつ不確実なため、「信頼性が高く、前線での運用を容易にするため高度な整備を必要としない」という赤軍の要求に反する存在だった。後方噴射の問題もやはり大きく、参考にされたデイビス式に同じく後方に長い危険界ができる上、ガスを噴射するために広範囲に影響が及ぶため、戦車に搭載したものでは車両に歩兵を随伴させることができない(戦車の場合、砲塔を回転させるために車両の全周広範囲に人が近づけなくなる)ことが大きな問題となった。 これらの問題により、開発を主導したクルチェフスキーは責任を問われて逮捕・投獄の後に処刑されてしまう。以後ソビエトにおいては無反動砲は開発計画が全て打ち切られた上に部隊配備も中止されてほとんどが引き揚げられ、クルチェフスキーの他に無反動砲を研究していた設計局や技術者にも局の閉鎖や転属が命じられた。無反動砲を主武装とした航空機はいずれも設計そのものに問題があったために採用されず、海軍用の大口径無反動砲は「今後の改良により大いなる有用性が見込まれる」と評価されていたが、開発責任者の粛清に伴い計画中止となった。 1939年冬から翌1940年にかけてソビエトがフィンランドに侵攻して発生した冬戦争において、今だ現役にあった76mm無反動砲を6輪のトラックに積載した簡易自走砲型、SU-4(СУ-4)が少数投入されており、それまでの低評価に反して実際の運用部隊による評価は高かった、とされているが、全体としては後の独ソ戦でドイツ軍が使用したクルップ式無反動砲を入手、調査して無反動砲に対する評価が好転するまで、ソビエトでこの種の火砲が省みられることはなかった。 1942年にはドイツ製無反動砲の分析結果を元に無反動砲に対する見直しが行われ、研究・開発に関する特別委員会が立ち上げられてソビエトにおける無反動砲の開発研究は再開された。なお、クルチェフスキーは1956年にスターリン批判に伴って名誉回復された。 1930年代に開発されたソビエト製無反動砲、DRP 76mm無反動砲SU-4自走砲から取り外されたもので、フィンランド軍による鹵獲品 SU-4(СУ-4)自走76mm無反動砲 T-26軽戦車の双銃塔型に76mm無反動砲を搭載した試作無反動砲搭載戦車 駆逐艦エンゲルスの艦尾部に搭載された305mm無反動砲
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