単発戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 14:02 UTC 版)
「ギュンター・シュペヒト」の記事における「単発戦闘機」の解説
1年後に訓練飛行団が夜間戦闘機学校(第1夜間戦闘学校/第III飛行隊)に再編されるとシュペヒトはメンヒェングラートバッハに駐留(1943年2月にディーレンへ移動)し、フォッケウルフ Fw190を装備する実戦部隊の第1戦闘航空団/第10飛行中隊(10./JG 1)に転属した。1943年2月26日にシュペヒトは初のアメリカ陸軍航空軍(USAAF)機であるB-17を撃墜した。 5月14日にシュペヒト大尉は第11戦闘航空団(JG 11)に転属し、II./JG 11の飛行隊長(ドイツ語: Gruppenkommandeur)になった。JG 11は北ドイツ平野上空を担当する新設の昼間戦闘機部隊であり、II./JG 11はBf 109-G「グスタフ」を装備していた。 JG 11に配属されるとシュペヒトは着実に重爆撃機の撃墜記録をのばし、1943年6月25日のJG 11での5機目の戦果により合計撃墜数は12機となった。シュペヒトは、1カ月後のハンブルクにあるブローム・ウント・フォス社のUボート・ブンカーとハノーファーにあるコンチネンタル社の合成ゴム工場、ノルトハーフェン(Nordhafen)を目標にしたブリッツ・ウィーク(電光週間)と呼ばれる爆撃の最中にも1機を撃墜した。 1943年10月4日にシュペヒトが率いるII./JG 11、III./JG 11と「ヘルゴラント戦闘中隊」(Jasta Heligoland)は、23機編隊中4機のコンソリーデッド B-24 リベレーターを撃墜し、その中の1機はシュペヒトの戦果であった。その当時の比較的弱体なBf 109の防弾装備によりシュペヒトは段々と危険な目にあうようになってきていた。1943年末の時点でシュペヒトの戦果は14機の重爆撃機を含む24機となり、シュペヒトは「重爆殺し」の専門家の一人となっていた。シュペヒトは1943年に17機を撃墜したII./JG 11内でも最多の戦果を挙げていた。 1944年2月11日にII./JG 11はフランクフルトへの攻撃から帰還する敵護衛戦闘機と交戦し、シュペヒトは第354戦闘団のリチャード・マクドナルド(Richard McDonald)少尉を撃墜した。マクドナルド少尉のノースアメリカン P-51「プレーン・ジェーン」(Plane Jane)はオーベラルベン近郊に墜落した。9日後にシュペヒトは、乗機のBf 109Gの機械的不具合によりエーア島に不時着した。3月15日にII./JG 11は6名の戦死者、2名の戦傷者と8機の損耗を出し、シュペヒトは6週間の作戦不能状態を宣言してその期間に休息と戦力の補充を行った。 1944年4月8日にシュペヒト少佐は西部戦線での31機の戦果で騎士鉄十字勲章を授与された。II./JG 11がまだエッシュボルンで戦力回復中にシュペヒト少佐は航空団本部(ドイツ語: geschwaderstab)へ訓練担当指揮官として配置換えとなり、第52戦闘航空団(JG 52)から転属してきたギュンター・ラル少佐が後任となった。1944年5月15日にシュペヒト少佐は負傷したヘルマン・グラーフの後を引き継いでJG 11の戦闘航空団司令(ドイツ語: Geschwaderkommodore)に任命された。7月にシュペヒトは再度不時着し頭部に負傷したが、傷の痛みにもかかわらず戦闘任務を続行した。 オランダへの連合国軍の空挺攻撃であるマーケット・ガーデン作戦中にJG 11は、シュペヒトの2機を含む22機を9月22日に撃墜した。4日後、シュペヒトはデーフェンテル近郊でRAFの2機のホーカー タイフーン機を撃墜した。
※この「単発戦闘機」の解説は、「ギュンター・シュペヒト」の解説の一部です。
「単発戦闘機」を含む「ギュンター・シュペヒト」の記事については、「ギュンター・シュペヒト」の概要を参照ください。
- 単発戦闘機のページへのリンク