【昼間戦闘機】(ちゅうかんせんとうき)
昼間戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 15:32 UTC 版)
「ボールトンポール デファイアント」の記事における「昼間戦闘機」の解説
最初の配備は1939年12月に第264飛行中隊が12機を受領し、1940年からイギリス海峡のパトロールの任務に就いた。初戦果は1940年5月12日のオランダ沖上空でHe 111、Ju88を1機ずつ撃墜。その後に続くダンケルクからの撤退戦においては、 Ju 87およびBf 110など計65機を撃墜している。 ただし、それら敵機を撃墜した時の状況には、ドイツ軍パイロットがデファイアントをハリケーンと誤認しデファイアントに有利な後方から接近してきたところを攻撃した場合が少なからず含まれている。またそれら撃墜した敵機のほとんどが機動性の低い双発機で、軽快なBf 109が相手ではデファイアントの方が多くの被害を出している。特に5月19日の出撃ではBf 109の正面攻撃によって6機中5機が撃墜される大きな被害を受けた。 264飛行中隊では対抗策として、機体を降下させながらラフベリーサークル(水平に円を描くように機動する防御陣形)をとることで死角を無くし防御する戦術を考案した。バトル・オブ・ブリテン開幕時に第264飛行中隊以外にデファイアントを配備していた第141飛行中隊が7月19日に出撃し、実戦でこの防御戦術を試すこととなったが、15機のBf109により攻撃をうけ9機中6機が撃墜された。第111飛行中隊のハリケーンが介入したため残りの3機は被撃墜を免れたが、被弾多数のために1機が帰還後に廃棄となっている。 こうしてデファイアントは昼間戦闘に不向きと認識され第一線からは外されることとなった。バトル・オブ・ブリテンでのイギリス軍の戦況は苦しく、8月にはたびたび戦闘任務が与えられた。しかし26日に2機喪失、28日に5機喪失し2回の出撃で計9人の搭乗員が死亡するなど、戦果に見合わない損害を被ったため、昼間戦闘機としての用途は完全に失われた。 昼間戦闘機としての欠点は、最大の特徴であるはずの銃塔が主な要因となっている。第一次世界大戦に比べ高速化した戦闘機同士の戦いでは、重力加重がかかる中で銃塔を動かして狙いをつけることは困難な作業だった。また、射撃に適した位置へ移動するためにはパイロットと射手の間で意志の疎通を図る事が必要なのだが、激しい戦闘機動中にそのような余裕が無かった。鈍重で機動力が低い飛行性能に加え、前方固定武器が無いためパイロットの自由な攻撃ができず、正面からの攻撃にも弱いという欠点もかかえることになった。 さらに細かい問題点として射手の生存率の低さがあげられる。射手の搭乗は銃塔を機体前方へ向け銃塔後部のハッチから行うのだが、銃塔を後方へ向けた状態ではこのハッチを開くことが不可能だった。つまり脱出する際も銃塔を機体前方へ向けないと射手は脱出できない構造になっていた。また、銃塔内部は狭く射手はパラシュートを装着した状態で搭乗できないため、脱出時に積んでおいたパラシュートを装着する手間を必要とした。さらに、機体が被弾し電気系統が損傷すると銃塔が旋回できず、脱出が不可能な状況に陥ってしまう弱点もあった。 このような問題に対してボールトンポール社は銃塔を撤去し主翼内に機銃を装備、単座に改修した機体(P.94)を空軍に提案したが、既にハリケーンやスピットファイアが活躍している状態下では採用されることが無かった。
※この「昼間戦闘機」の解説は、「ボールトンポール デファイアント」の解説の一部です。
「昼間戦闘機」を含む「ボールトンポール デファイアント」の記事については、「ボールトンポール デファイアント」の概要を参照ください。
昼間戦闘機と同じ種類の言葉
- 昼間戦闘機のページへのリンク