撤退戦とは? わかりやすく解説

撤退戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:30 UTC 版)

慶長出羽合戦」の記事における「撤退戦」の解説

そしてこの29日に、関ヶ原において石田三成指揮執る西軍が、徳川家康指揮執る東軍大敗喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報知った兼続自害しようとしたものの、前田利益(慶次郎)に諫められ、撤退決断したとされる。翌9月30日最上勢も関ヶ原結果を知ることとなり、攻守逆転する10月1日上杉軍撤退開始最上伊達連合軍追撃した。富神山付近陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど激戦となり、両軍多く死傷者出した追撃軍を迎え撃つため、直江兼続は自ら畑谷城手勢と共に立てこもって殿をつとめ、10月3日荒砥退却した前田利益水原親憲などの善戦もあり、兼続鉄砲隊最上軍防ぎながら追撃振り切り、10月4日米沢城帰還した。『最上義光記』には「直江近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し追い乱れた味方の勢を右往左往にまくり立て数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江虎口逃れ敗軍集めて心静かに帰陣しけり」とある。 この撤退戦は後世まで語り草になった最上義光兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず心静かに陣払い様子、(中略誠に景虎武勇強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し家康兼続駿府訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増し武功の者」とおおいに賞賛したという。 また、最上勢は全戦線反攻転じ10月1日には寒河江白岩左沢回復すると、撤退から取り残され谷地城籠る下秀久11日間の籠城の末に降伏した。 『長谷堂合戦屏風江戸時代中期 戸部正直画 (左隻)退却する直江兼続追撃する最上義光 (右隻)長谷堂城攻撃する直江兼続

※この「撤退戦」の解説は、「慶長出羽合戦」の解説の一部です。
「撤退戦」を含む「慶長出羽合戦」の記事については、「慶長出羽合戦」の概要を参照ください。

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