バレエダンサーとして
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「シャルロッテ・スロッツベリ」の記事における「バレエダンサーとして」の解説
1771年に戴冠したグスタフ3世は自国民からなる劇団を作るべく、フランスから招いていたデュ・ロンデル劇場を解散させたが、そこに所属していたバレエダンサーの多くは、シャルロッテやその母親と叔母らとともに新たに設立されたスウェーデン王立バレエ団に移された。スウェーデン王立バレエ団とスウェーデン王立歌劇場の創設当初は、特にバレエの訓練を受けたスウェーデン人の演者はほとんどおらず、主にフランスとイタリアから雇い入れたダンサーが、スウェーデン王立バレエ団の第一世代ダンサーの教育に当たった。そのほとんどは宮廷に仕えるスウェーデン人や音楽家の子弟であった。1773年に行われた最初のバレエ公演において、シャルロッテとマグダレナ・ルンドブラッドは数少ない「訓練を受けたスウェーデン人ダンサー」の一人であったと言われている。 1773年1月18日にはスウェーデン王立歌劇場の杮落とし公演として行われたフランチェスコ・アントニオ・ウッティーニの有名なオペラ『Thetis och Pélée』に出演し、「愛」役で友人のベティ・オーリンとともに「美徳」役を演じた。カール・クリストファー・ジョーウェルは、その際のシャルロッテを「春の日と同じくらい美しい」と称賛し、「我らが初々しいスロッツベリ嬢は、ヨーロッパで最も偉大なダンサーの1人となり、ロイヤル・ボックスからの絶えることない拍手なしに劇場に足を踏み入れることはなかった」と評している。 シャルロッテは、スウェーデンのバレエの主役をエリザベス・ソリニーやジョヴァンナ・バッシなどの外国人ダンサーが占めていた時代にあって、間違いなくスウェーデン初のスウェーデン人スター・ダンサーであった。男性ダンサーのスターであったアントワーヌ・ブルノンヴィルのお気に入りのパートナーでもあり、1786年/1787年シーズンには首席バレリーナに任命された。 1777年/1778年シーズンではグレトリの『Procris och Cephal(プロクリスとケパロス)』でオーロラ役を演じ、カール・ステンボリとロヴィーサ・アウグスティと共演した。1786年/1787年シーズンにはジャン・マルカデのパントマイム・バレエ『La Rosiére de Salency』のルシール役でアントワーヌ・ブルノンヴィルとカルロ・ウッティーニと共演。続く1787年/1788年シーズンにはグスタフ3世によるオペラ『グスタフ・アドルフとエッバ・ブラーエ(Gustav Adolf och Ebba Brahe)』のルイ・ガロディエが振り付けたバレエでベローナ役を演じ、パラス役のジョヴァンナ・バッシと共演した。1773年/1774年シーズンのラース・ラリンによるオペラ『Acis och Galathea』では、このオペラで満場の喝采を浴びた数少ない演者の一人となった。1789年9月22日には、ボルフセットの王立演劇場でヨーゼフ・マルティン・クラウスの戯曲『Soliman och de tre sultaninnorna(ソリマンと3人のスルタネス)』のエルマイラ役を演じた。
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バレエダンサーとして
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東京都の出身。バレエを始めたのは6歳のときで、友人に誘われたのが契機であった。友人は谷桃子バレエ団研究所でバレエを習っていたため、伊藤の母は「谷桃子先生にお会いできる」と喜んで彼女を研究所に連れて行ったという。それから谷バレエ団研究所に入所して、谷の他に八代清子、高橋清子、村上弘子に師事した。 最初に観たバレエ公演は、谷の引退公演となった『ジゼル』だった。伊藤の初となる発表会で振付を手がけたのも谷で、その後も長きにわたって指導を受けた。 幼少時はバレエの練習が好きではなかったが、発表会で踊ることは大好きだった。もともと活発な性格で、学校の友達と遊ぶことが楽しかったために、バレエの自習を行うようなこともしなかった。 伊藤がバレエに真剣に取り組むようになったのは、中学生くらいになったときであった。この時期に彼女の指導者となった村上弘子は、ワガノワ・メソッドに則った厳格な練習を行った。特に厳しかったのはポール・ド・ブラや身体の向きなどの指導で、一つのことがらをできるまで何度でも繰り返した。ときにはそれが1か月続いたことさえあったが、この時期に正しい指導を受けたことを後に振り返って「じっくりと取り組めたのはよかった」と感謝している。 やがて伊藤はバレリーナに憧れをもつようになった。彼女は舞台鑑賞が好きだったため、谷桃子バレエ団や世界各国のバレエ団の公演を見て大きな刺激を受けた。特に憧れたのは、イタリアのバレリーナ、カルラ・フラッチだった。 バレエの道を進むことになった伊藤は、高校を卒業する年にイギリスのバレエ・ランベール・スクールに留学した。この学校はランベール・ダンス・カンパニーの付属で、クラシック・バレエとコンテンポラリー(マーサ・グレアムのメソッド)の技法を一緒に学ぶことが可能だった。 イギリスではロイヤル・バレエ団の公演を始め、オペラやミュージカルの舞台を身近で見ることができる環境に恵まれた。この時期は伊藤にとって楽しく実り多いもので、日本人以外の友人も沢山できたという。スクール在学中には、サドラーズウェルズシアターでバレエ・ランベール60周年記念公演に『ソワレ・ミュージカル』(アントニー・チューダー振付)のタランテラで出演を果たすなど舞台に立つ機会もあった。 バレエ・ランベール・スクールの卒業時には、スクールパフォーマンスで『眠れる森の美女』からオーロラ姫のパ・ド・ドゥを踊った。1987年に日本へ帰国して、谷桃子バレエ団の団員となった。 25歳のとき、初めて全幕バレエの主役(『白鳥の湖』のオデット=オディール)を踊った。このときは相手役を務めた水野英俊も初役であり、2人とも非常に緊張していて谷から教わったとおりに踊るだけで精いっぱいの状態であったという。当時は踊り終えただけで満足していたが、後に「自分の表現をする余裕はなかった」と回想している。 以後は谷バレエ団の主力ダンサーとして、端正な表現力と優れたテクニックを持ち味として『白鳥の湖』、『ジゼル』、『パキータ』などの古典から『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』(ジョージ・バランシン振付)や『令嬢ジュリー』(ビルギット・クルベリ振付)のような近現代の作品に至る幅広いレパートリーで重要な役を踊った。谷バレエ団のみならず、ゲストとして日本バレエ協会公演等に出演するなど幅広く活動を続けている。 コンクールでの入賞歴は、第42回全国舞踊コンクールバレエジュニア部3位(1985年)、第46回全国舞踊コンクールバレエ第一部2位(1989年)がある。1995年には村松賞(音楽新聞社)を受賞した。 伊藤はシニアプリンシパルとして谷バレエ団の舞台に立つ他に、後進の指導も手がけている。谷バレエ団で付属アカデミーの芸術監督も務める以外にも、外部でバレエの指導を担当している。
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