バレエダンサーとしてとは? わかりやすく解説

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バレエダンサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 07:43 UTC 版)

シャルロッテ・スロッツベリ」の記事における「バレエダンサーとして」の解説

1771年戴冠したグスタフ3世自国からなる劇団作るべく、フランスから招いていたデュ・ロンデル劇場解散させたが、そこに所属していたバレエダンサー多くは、シャルロッテやその母親叔母とともに新たに設立されスウェーデン王立バレエ団移された。スウェーデン王立バレエ団スウェーデン王立歌劇場創設当初は、特にバレエ訓練受けたスウェーデン人演者はほとんどおらず、主にフランスイタリアから雇い入れたダンサーが、スウェーデン王立バレエ団第一世代ダンサー教育当たった。そのほとんどは宮廷仕えスウェーデン人音楽家の子であった1773年行われた最初バレエ公演において、シャルロッテとマグダレナ・ルンドブラッドは数少ない訓練受けたスウェーデン人ダンサー」の一人であったと言われている。 1773年1月18日にはスウェーデン王立歌劇場杮落とし公演として行われたフランチェスコ・アントニオ・ウッティーニ有名なオペラThetis och Pélée』に出演し、「愛」役で友人のベティ・オーリンとともに美徳」役を演じた。カール・クリストファー・ジョーウェルは、その際シャルロッテを「春の日同じくらい美しい」と称賛し、「我ら初々しいスロッツベリ嬢は、ヨーロッパで最も偉大なダンサー1人となり、ロイヤル・ボックスからの絶えることない拍手なしに劇場足を踏み入れることはなかった」と評している。 シャルロッテは、スウェーデンバレエ主役をエリザベス・ソリニーやジョヴァンナ・バッシなどの外国人ダンサー占めていた時代にあって間違いなくスウェーデン初のスウェーデン人スター・ダンサーであった男性ダンサースターであったアントワーヌ・ブルノンヴィルのお気に入りパートナーでもあり、1786年/1787年シーズンには首席バレリーナ任命された。 1777年/1778年シーズンではグレトリの『Procris och Cephal(プロクリスケパロス)』でオーロラ役を演じ、カール・ステンボリとロヴィーサ・アウグスティと共演した1786年/1787年シーズンにはジャン・マルカデのパントマイム・バレエ『La Rosiére de Salency』のルシール役でアントワーヌ・ブルノンヴィルとカルロ・ウッティーニと共演。続く1787年/1788年シーズンにはグスタフ3世によるオペラグスタフ・アドルフとエッバ・ブラーエ(Gustav Adolf och Ebba Brahe)』のルイ・ガロディエが振り付けバレエベローナ役を演じパラス役のジョヴァンナ・バッシと共演した1773年/1774年シーズンのラース・ラリンによるオペラAcis och Galathea』では、このオペラ満場喝采浴びた数少ない演者一人となった1789年9月22日には、ボルフセットの王立演劇場でヨーゼフ・マルティン・クラウス戯曲『Soliman och de tre sultaninnorna(ソリマンと3人のスルタネス)』のエルマイラ役を演じた

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バレエダンサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 08:45 UTC 版)

伊藤範子」の記事における「バレエダンサーとして」の解説

東京都出身バレエ始めたのは6歳のときで、友人誘われたのが契機であった友人谷桃子バレエ団研究所バレエ習っていたため、伊藤の母は「谷桃子先生にお会いできる」と喜んで彼女を研究所に連れて行ったという。それから谷バレエ団研究所入所して、谷の他に八代清子高橋清子、村上弘子に師事した最初に観たバレエ公演は、谷の引退公演となったジゼル』だった。伊藤の初となる発表会振付を手がけたのも谷で、その後長きわたって指導受けた幼少時バレエ練習が好きではなかったが、発表会で踊ることは大好きだった。もともと活発な性格で、学校の友達と遊ぶことが楽しかったために、バレエ自習を行うようなこともしなかった。 伊藤バレエに真剣に取り組むようになったのは、中学生くらいになったときであった。この時期に彼女の指導者となった村上弘子は、ワガノワ・メソッド則った厳格な練習行った。特に厳しかったのはポール・ド・ブラや身体の向きなどの指導で、一つことがらをできるまで何度でも繰り返したときにはそれが1か月続いたことさえあったが、この時期正し指導受けたことを後に振り返って「じっくりと取り組めたのはよかった」と感謝している。 やがて伊藤バレリーナ憧れをもつようになった。彼女は舞台鑑賞好きだったため、谷桃子バレエ団世界各国バレエ団公演見て大きな刺激受けた。特に憧れたのは、イタリアバレリーナカルラ・フラッチだった。 バレエの道を進むことになった伊藤は、高校卒業する年にイギリスのバレエ・ランベール・スクールに留学した。この学校はランベール・ダンス・カンパニーの付属で、クラシック・バレエコンテンポラリーマーサ・グレアムメソッド)の技法一緒に学ぶことが可能だったイギリスではロイヤル・バレエ団公演始めオペラミュージカル舞台を身近で見ることができる環境恵まれた。この時期伊藤にとって楽しく実り多いもので、日本人以外の友人も沢山できたという。スクール在学中には、サドラーズウェルズシアターでバレエ・ランベール60周年記念公演に『ソワレ・ミュージカル』(アントニー・チューダー振付)のタランテラ出演を果たすなど舞台に立つ機会もあった。 バレエ・ランベール・スクールの卒業時には、スクールパフォーマンスで『眠れる森の美女』からオーロラ姫パ・ド・ドゥ踊った1987年日本へ帰国して、谷桃子バレエ団団員となった25歳のとき、初めて全幕バレエ主役(『白鳥の湖』のオデットオディール)を踊った。このときは相手役務めた水野英俊初役であり、2人とも非常に緊張していて谷から教わったとおりに踊るだけで精いっぱいの状態であったという。当時踊り終えただけで満足していたが、後に「自分表現をする余裕はなかった」と回想している。 以後は谷バレエ団主力ダンサーとして端正な表現力優れたテクニック持ち味として『白鳥の湖』、『ジゼル』、『パキータ』などの古典から『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』(ジョージ・バランシン振付)や『令嬢ジュリー』(ビルギット・クルベリ振付のような近現代の作品に至る幅広いレパートリー重要な役を踊った。谷バレエ団のみならずゲストとして日本バレエ協会公演等に出演するなど幅広く活動続けている。 コンクールでの入賞歴は、第42回全国舞踊コンクールバレエジュニア部3位1985年)、第46回全国舞踊コンクールバレエ第一部2位1989年)がある。1995年には村松賞(音楽新聞社)を受賞した伊藤はシニアプリンシパルとして谷バレエ団舞台に立つ他に、後進の指導も手がけている。谷バレエ団付属アカデミー芸術監督務める以外にも、外部バレエ指導担当している。

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