ナポレオン3世の登場とクリミア戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ナポレオン3世の登場とクリミア戦争の意味・解説 

ナポレオン3世の登場とクリミア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ナポレオン3世の登場とクリミア戦争」の解説

フランス第二共和政大統領選出されたルイ・ナポレオン・ボナパルトは議会対立深める中で1851年クーデタ起こして成功させ、1852年皇帝即位してナポレオン3世となったナポレオン3世クーデタの際にイギリス中立宣言していたが、パーマストン外相独断ナポレオン3世クーデタ成功祝電送ったため、ヴィクトリアラッセル首相に彼の解任求め首相もそれに応じた1852年12月ロンドン締結され秘密議定書によってイギリスプロイセンオーストリアロシア皇帝ナポレオン3世承認したが、反仏的なロシア皇帝ニコライ1世ナポレオン3世王号認めずナポレオン3世苛立たせた。 ロシア帝国当時崩壊寸前だったオスマン=トルコ帝国切片拾い上げる目的当時トルコ領だったバルカン半島在住する正教徒保護求めてトルコ対立深めていた。これに対抗してナポレオン3世トルコ加担するようになり、トルコからエルサレムローマ・カトリック教徒保護認められた。トルコの態度激怒したロシア軍1853年7月からトルコ領侵攻開始した11月両国宣戦布告しクリミア戦争始まったアバディーン伯爵内閣閣内分裂状態初めどちらに付くべきか結論が出なかった。だが海洋覇者イギリスとしてはロシア黒海から地中海出てきたり、あるいは北方バルト海支配することは避けたかった。ヴィクトリアロシア軍地中海南下危機感露わにしていた。ナポレオン3世英仏共同ロシア最後通牒突きつけようと提案してきたこともあり、結局イギリスはそれに乗ることになった最後通牒一カ月以内占領地からの撤収ロシア求めたが、ロシア皇帝ニコライ1世はこれを無視したため英仏オスマン側で参戦した。 しかし40年ヨーロッパで戦闘経験がないイギリス陸軍脆弱であり、しかも英仏軍はナポレオン戦争を引きずってどこかギクシャクしていた。戦争泥沼化し、前線多く死傷者病人出したヴィクトリア王女女官たちとともに前線兵士たちのためにマフラー手袋編んだ戦死者寡婦弔慰状を書く事にも精を出した1854年にはクリミア・メダル(英語版)を制定し閲兵式において兵士たちに自ら授与した負傷兵慰問にも出かけた。またプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世書状送り、最低でも中立を保つよう依頼したクリミア戦争中の1855年4月16日ナポレオン3世皇后ウジェニーが訪英した。親オルレアン家ヴィクトリア革命から生まれ出たボナパルト家嫌っていたが、ナポレオン3世ウジェニーのことはすっかり気に入ったようだった二人別れる際にはヴィクトリア涙ぐんでお別れ言葉述べた。ただこの頃ナポレオン3世クリミア半島へ自ら出陣する意思固めており、ヴィクトリア大臣たちからそれを諌止してほしいと頼まれていたが、彼女の説得にもナポレオン3世翻意しなかった(結局彼は自らの暗殺未遂事件があった後にこの計画断念した)。 パリ万国博覧会開催中同年8月返礼としてヴィクトリアアルバートヴィッキーバーティが訪仏した。ヴィクトリア子供たち皇帝好きになったと日記書いている。バーティナポレオン3世に「貴方の息子だったらよかったのに」と語ったという。ナポレオン3世にとって何より重要な儀式となったのは、ヴィクトリア廃兵院訪問してナポレオン詣でたことだった。その場ではナポレオン敬意払っていたヴィクトリアだったが、帰国後にはナポレオンについて「見事でしたけどプール似ていたわ」と嫌味述べた一方前線ではセヴァストポリ要塞攻防戦ロシア軍英仏軍が激戦繰り広げていた。ヴィクトリア外相クラレンドン伯爵に「ここを陥落させればオーストリアとプロイセンこちら側参戦するはず。文明世界食らう野蛮ロシア周辺列強全て封じ込めなければいけません」と語った1855年9月セヴァストポリ要塞陥落したことでロシア皇帝アレクサンドル2世戦意喪失しナポレオン3世の提唱するパリ講和会議受け入れ1856年3月30日パリ条約締結され終戦した。だがこれはイギリス意に反する形で行われヴィクトリアナポレオン3世不信感を持つようになったとはいえイギリス一人で粘るわけにはいかず結局この条約追従する羽目になった。 しかしパリ条約双方利益少なくこれでは何のために多くイギリス人の命が失われたのか分からないヴィクトリア不満だった伯父レオポルド王宛ててイギリス目的野蛮大国ロシア危険な野望からヨーロッパを救う事です。オーストリアとプロイセン1853年段階ロシア断固たる姿勢とっていたらこんなことにはならなかったのに」と書いた。 1855年8月25日ヴェルサイユ宮殿オペラ劇場。訪仏したヴィクトリアアルバート歓迎晩餐会描いたウジェーヌ・ラミ絵画 バラクラヴァの戦いにおいてロシア軍突撃防いだ93歩兵連隊の「シン・レッド・ライン」を描いたロバート・ギブ(英語版)の絵画 クリミア戦争負傷者慰問するヴィクトリアアルバートバーティ皇太子アルフレッド王子描いたジェリー・バレット(英語版)の絵画

※この「ナポレオン3世の登場とクリミア戦争」の解説は、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の解説の一部です。
「ナポレオン3世の登場とクリミア戦争」を含む「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事については、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ナポレオン3世の登場とクリミア戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナポレオン3世の登場とクリミア戦争」の関連用語

ナポレオン3世の登場とクリミア戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナポレオン3世の登場とクリミア戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヴィクトリア (イギリス女王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS