大元帝国とは? わかりやすく解説

元 (王朝)

(大元帝国 から転送)

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北走後も北元のクビライ家皇統は1388年まで存続。モンゴル・ハン国は1635年まで存続した。






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大元帝国

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モンゴルの歴史」の記事における「大元帝国」の解説

詳細は「元 (王朝)」を参照 1271年クビライ国号を漢式の「大元ダイオン)」と改め翌年から金の中都であった燕京城の東北郊外新たな首都大都」を建設し1283年完成させる1276年元朝南宋首都臨安杭州)に迫り無血開城させると、1279年までに南宋残党滅ぼし150年ぶりに中国統一を果たす。1274年文永の役)と1281年弘安の役)には日本侵攻するが、失敗終わり1285年1288年にはベトナム陳朝大越国侵攻するが、これも失敗終わった晩年クビライ各地反乱鎮圧追われ1294年病没する。後を継いだのは孫のテムル(オルジェイトゥ・カアン、欽明広孝皇帝成宗在位1294年 - 1307年)であり、彼は1301年侵攻してきた中央アジアカイドゥの軍を破り長年続いていたモンゴル帝国の内紛終結させ、「パクス・モンゴリカモンゴルの平和)」と呼ばれる帝国安定期もたらした。しかし、その平和は長く続かず1307年テムル没してからは後継争いが相次ぎ朝廷ではキプチャク・メルキト軍閥将軍たちが実権握って国庫破綻させた。1348年には塩商方国珍反乱起き1351年には白蓮教徒による紅巾の乱起きた。この反乱の中から台頭した朱元璋1368年南京大明皇帝の位に就き元朝大都攻撃して皇帝トゴン・テムルウカアト・カアン、宣仁普孝皇帝順帝恵宗在位1333年 - 1368年)を内モンゴル応昌府まで敗走させた。明軍占領され大都灰燼に帰し中国史における元朝はここに滅びた

※この「大元帝国」の解説は、「モンゴルの歴史」の解説の一部です。
「大元帝国」を含む「モンゴルの歴史」の記事については、「モンゴルの歴史」の概要を参照ください。

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