大元帥としての軍務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)
「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「大元帥としての軍務」の解説
ヴィルヘルム2世が即位するとまもなくヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)伯爵が退役を希望した。ヴィルヘルム2世は退役を認可し、1888年8月10日に参謀次長アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵を代わりの参謀総長に任じた。ヴァルダーゼーは即位前からヴィルヘルム2世と親しくしていた人物であり、宰相ビスマルクの失脚にも一役買った。 しかしヴァルダーゼーは伝統的なプロイセン軍人らしく陸軍増強論者であったため、植民地拡大のために海軍を増強したがっていたヴィルヘルム2世と意見対立を深めた。ヴィルヘルム2世はヴァルダーゼーを更迭して1891年1月31日にアルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵を参謀総長に任じた。ヴィルヘルム2世は「参謀総長は一種の書記官として余の側におればよい。従って余にはもっと若い参謀総長が必要である」と述べた。 シュリーフェンは決戦兵器がすでに騎兵から速射兵器に移っている事を強く認識し、騎兵は遠方偵察用と割り切るなど軍の近代化を進めた。当たり前のことのようであるが、当時のプロイセン軍はいまだ騎兵信仰などの保守主義が蔓延していた。普仏戦争では気球も機関銃もないプロイセン軍が勝利したという成功例もそれを後押ししていた。ただしシュリーフェンはヴィルヘルム2世の機嫌を損ねることは決してしなかった。ヴィルヘルム2世は騎兵突撃を愛していたので御前演習では常にクライマックスに騎兵突撃が行われたが、シュリーフェンはこれに抗議をする事はなかった。陸軍増強のための予算が海軍の建艦費に流用されても抗議することは無かった。 露仏の同盟関係が強化されていく中でシュリーフェンはロシア・フランスと戦争になった場合、対ロシアの東部戦線は最低限の兵力で以って対処し、対フランスの西部戦線の右翼に戦力を集中させ、ベルギーの中立を犯して通過し、北フランスへなだれ込み、南下してパリの背後に出てそこからスイス国境まで北進するというシュリーフェン・プランを1897年から1905年にかけて策定した。この案によればロシア軍が東プロイセンに侵攻してこようが、イギリス軍がデンマークに上陸してこようがすべて無視し、対フランス戦に集中してフランスを6週間で片づけ、しかる後にそれらの敵と対峙することになる。 1903年末にヴィルヘルム2世は参謀総長シュリーフェンに近衛第一歩兵師団長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)中将を参謀次長に任じる旨を告げた。小モルトケは大モルトケの甥にあたり、かつて伯父の副官としてよく宮廷に出入りし、ヴィルヘルム2世から「ユリウス」というあだ名で呼ばれるほど皇帝と親しい間柄だった。この任命に軍事的意味はほとんどなく、ヴィルヘルム2世は「モルトケ」の「ブランド名」に惹かれていただけであるという。シュリーフェンは小モルトケを評価していなかったが、シュリーフェンは古風な上流階級出身者だったから皇帝の意向には黙って従った。 1906年には小モルトケを参謀総長に任じた。小モルトケはシュリーフェン・プランの修正を開始した。折しもドイツ軍はフランス軍の第17号作戦計画を掴んでいた。それによるとフランス軍はロートリンゲン(左翼)に攻撃をかけてくるつもりであった。そこで左翼軍であるロートリンゲンの第6軍、アルザスの第7軍からも攻勢を開始させることとした。これにより右翼軍は若干規模を縮小されることとなった。 1899年、ドイツ海軍防護巡洋艦「SMS ハンザII(de)」を視察するヴィルヘルム2世 1900年、義和団の乱に際して清に出征する東アジア遠征軍に演説するヴィルヘルム2世 1911年、ダンツィヒ。第1近衛軽騎兵連隊(de)を閲兵する皇帝ヴィルヘルム2世と皇太子ヴィルヘルム。 ヴィルヘルム2世とドイツ軍将軍たち。
※この「大元帥としての軍務」の解説は、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
「大元帥としての軍務」を含む「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事については、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の概要を参照ください。
- 大元帥としての軍務のページへのリンク