大兄略史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/18 09:30 UTC 版)
『日本書紀』の中に「大兄」を付けて呼ばれる皇子は8人いる。5世紀前半に大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ、履中天皇)が「大兄」として初めて現れているが、制度としては未確立であったと思われる。「大兄」としての実在性が確かな最初の人物は、6世紀前期にいた継体天皇の長子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、安閑天皇)である。安閑天皇には男子がおらず、次兄の宣化天皇が後継したが同様に男子がいなかったため、末弟の欽明天皇が代を継いだと日本書紀は伝えるが、欽明天皇が安閑・宣化を滅ぼしたとする説、さらには欽明朝と安閑・宣化朝が並立していたとする説もある。 その後の「大兄」には欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子(やたたまかつのおおえのみこ)、欽明天皇を後継した敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、敏達天皇の異母兄弟である大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)、用明天皇の子厩戸皇子(推古天皇の「皇太子」・「摂政」)の長子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の長子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)がいるが、これらの大兄のうち大王位に即いた例の方が少ない。さらに推古天皇の死後には、「大兄」の嫡男(田村皇子・後の舒明天皇)と「皇太子」・「摂政」の嫡男である「大兄」(山背大兄王)のどちらが皇位継承に相応しいかで紛争を起こしたケースも存在する。このことは、当時の皇位継承の決定方法が明確に規定されていなかったこと、たとえ「大兄」の称号を保有していても治天下大王を継承できる訳ではなかったことを表している(用明天皇の嫡男であり、推古天皇の最有力後継候補であった厩戸皇子が「大兄」を称していないことにも注意を払うべきであろう)。 大王家において、最後の「大兄」と見られるのが中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)である。天智天皇の後を継いだ大友皇子(弘文天皇)はもはや「大兄」と呼ばれることはなく、その後も「大兄」の称号は絶えている。すなわち、皇位継承者の決定方法がこの頃に明確に定められたのではないかと考えられる。その皇位継承法とはおそらく、兄弟間の継承を廃し、治天下大王が没したと同時にその長子へ継承する方式だったと推測される。このため、天智天皇の長子である大友皇子が即位することになり、皇位承継の道を閉ざされた大海人皇子(天武天皇)が叛乱(壬申の乱)を起こした一因となったのであろう。
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