安定期(1990年 - 2009年)
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「スコーピオンズ」の記事における「安定期(1990年 - 2009年)」の解説
1990年「ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた、元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。演奏は、『ザ・ウォール ライヴ・イン・ベルリン - The Wall Live In Berlin - 』として発売された。11月に、アルバム『クレイジー・ワールド - Crazy World - 』を発売。このアルバムは、長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わり、キース・オルセンがプロデュースを務めている。「ウィンド・オブ・チェンジ - Wind of Change -」がシングル・カットされ、”全米第4位(1991年)、全英第2位”を記録するビッグ・ヒットとなった。その後、印税のトラブルから、ベーシストのフランシス・ブッホルツ(b.)を解雇する。 1992年の活動は無く、1993年にはラルフ・リーカーマン(b.)を迎え、9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート - Face the Heat - 』を発売。 1994年1月の来日公演はM.S.G.に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させた。 1995年、ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ - Live Bites - 』を発売。 1996年、デビュー25年を迎えイースト・ウエスト・ジャーマニーと契約。5月にレーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能 - Pure Instinct - 』を発売。その後、ジェイムズ・コタック(ds.)が加入。 1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ - DEADLY STING:The Mercury Years - 』を発売。 1999年4月、3年ぶりのアルバム『アイ・トゥ・アイ - Eye II Eye - 』発売。オーストリア人のピーター・ウルフ(ジェファーソン・スターシップやハートのプロデューサーとして知られる)プロデュースで制作されたこのアルバムはコンピューターを導入した。 2000年ドイツ、ハノーファーで開催されたEXPO2000のテーマ曲を担当し、「モーメント・オブ・グローリー」を発表。同年夏にその曲も含みベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演によるアルバム『栄光の蠍団~モーメント・オブ・グローリー~ - Moment of Glory - 』を発売。 2001年2月9日にポルトガル・リスボンでアンプラグド・ライブを行い、7月に『アコースティック・ライヴ - Acoustica - 』として発売。 2004年『反撃の蠍団 - Unbreakable - 』を発売。 2007年『蠍団の警鐘 - HUMANITY HOUR 1 - 』を発売。
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安定期
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「親衛隊 (アイドル)」の記事における「安定期」の解説
1980年代中盤に差しかかると安定期に入る。7代目まで続いた聖子隊も1985年、松田聖子の婚約(神田正輝と。所謂“聖輝の結婚”)により解散する。この当時、連合所属隊数20数隊。各隊長クラスは主に聖子隊出身者が多かった。現代ではまず有り得ない話だが、親衛隊長とアイドルが恋愛関係に発展してしまったり、マネージャーの紹介でそのまま芸能事務所に社員・マネージャー見習いとして就職したりするなど、現役の隊員や元隊員が学校卒業時などの職業選択の一つとして芸能事務所やテレビ局など芸能関係の仕事に就くケースが出てきた。柳兄は親衛隊引退後、ライジングプロダクション入りし、デビューから数年、荻野目洋子のマネージャーを務めている。1984年7月28日に行なわれた日比谷野外音楽堂でのファースト・コンサートでは、柳の鶴の一声により関東連合を中心とした親衛隊800人が動員された。また、同じく1986年10月5日のよみうりランドオープンシアターEASTでのコンサートでは、全国から3,000人もの親衛隊が総動員され、新たな伝説を築いた。
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安定期(戦後)
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しかし、戦後になると文化勲章受章者の堂本印象や上村松篁、それ以外にも中村大三郎、宇田荻邨らが活躍し、またその弟子たちが現在活躍するに至っている。
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安定期
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急性期にインターベンションが成功すると、比較的予後は保たれることが多い。安定期には安静、内服加療が中心となり、疾患の特徴上糖尿病、高血圧、高脂血症、コレステリン塞栓症などが併存することが多いため、これらに対する検査・加療、患者教育などが中心となる。 インターベンション不成功例、発症から時間が経過していた例などは下記の様な合併症を生じることが多い。
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安定期
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1968年3月、KOST-FMのコールサインを付与され、実質的には全て音楽で構成される放送が開始したが、当時は珍しいものであった。 1970年代までイージーリスニングの放送を続けていたが、1980年代に競合局の存在もあり、ボーカル入りの曲を徐々に増やした。1982年11月15日にはアダルト・コンテンポラリー・ミュージックで構成される放送局へと転身した。この変更を機にサクラメントラジオでパーソナリティを務めていたブライアン・シモンズが移籍し、同フォーマットでの最初のパーソナリテイになった。 1986年2月3日には新しい朝の顔としてMark Wallengrenとキム・アミドンがデビューした。「マーク&キム モーニングショー」は2007年までの20年以上放送され、ロサンゼルスのラジオでは最長を誇っている。なお、この功績が認められ、両者はハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得している。Mark Wallengrenは現在もKOSTに出演している。
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安定期
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バトゥの死後はその息子であるサルタクとウラクチが継いだがどちらも短命で終わり、バトゥの弟であるベルケが継いだ。ベルケはトルイ家のフレグ・アバカ父子とアゼルバイジャンの領有をめぐって対立し、没落したチャガタイ家やオゴデイ家の復権に協力した。ベルケの死後、モンケ・テムルの時代を経るとジョチ・ウルスでは後継者や権力者の座をめぐって内乱が起こり、1291年にモンケ・テムルの末子であるトクタが後を継ぐことで収束。このトクタとその甥であるウズベク・ハンの時代にジョチ・ウルスは安定期から全盛期を迎えたのであった。
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安定期
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初代専制公マヌイル・カンダクジノス(1349年 - 1380年)は内憂外患によって荒廃していた半島に秩序をもたらし、帝国の支配を実質的に再建する事に成功した。現在世界遺産として知られるミストラスが都市として発展するようになるのもこの時代からである。彼はミストラスに常設的な行政府として宮殿を建設し、いくつかの聖堂の建立を支援した。また、この頃からうち続くラテン勢力との紛争を逃れてきた人々により増加した人口に対応するべく、城壁を新設して市域を拡張するなどの政策を次々に打ち出している。 マヌイルの死後、退位皇帝として隠退していた兄マテオスが専制公の職権を引き継いだ。これはコンスタンティノポリスの皇帝ヨアニス5世パレオロゴス(1341年 - 1391年)の許から新専制公セオドロス1世パレオロゴスが派遣されてくるまでの代行職であった。しかし、マテオスの息子ディミトリオス・カンダクジノスはセオドロスの派遣に反対し、父の死後自らが専制公領を世襲すべく武力でこれに対抗した(1383年 - 1384年)。しかしディミトリオスは間もなく急死し、セオドロスが専制公として就任した。以後、全てのモレアス専制公はパレオロゴス家の出身者で占められる事になる。 セオドロス1世パレオロゴスはマヌイル・カンダクジノスの政策を引き継いで内政の整備に努め、当時流行したペストによる人口減に対応すべくアルバニア人を組織的に入植させるなどして国力の充実を図った。最大の障壁は反抗的な土着有力者勢力で、セオドロスは彼らへの対処に手を焼く事になった。また、対外的にはバルカン半島に著しく勢力を拡大してきたオスマン帝国の脅威にさらされ、1394年、1397年と二度にわたって侵攻を受け、専制公領は存続の危機に立たされた。 アンカラの戦い(1402年)に於けるオスマン帝国の敗退と解体は東ローマ帝国にとっては一つの安定期をもたらした。マヌイル2世パレオロゴス帝(1391年 - 1425年)は弟セオドロス1世の死後、次子セオドロス2世パレオロゴスを専制公として派遣した。1415年には自らこの地を訪問し、半島の入り口であるコリンソス地峡をまたぐエクサミリオン城塞を建設して防備を固めるなど、専制公領の内政整備に努めた。
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安定期(2005年頃~2011年頃)
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「CardWirth」の記事における「安定期(2005年頃~2011年頃)」の解説
この時期になると、エンジンのバージョンが固定された状況が長く続いたこともあって、CardWirthを取り巻く状況はほぼ横ばいとなり大きな変動は見られなくなった。ユーザーの動きとしては中心となるべき開かれたコミュニティの場が存在していなかったこともあり、多くのユーザーは個人単位で細々とした活動を行うか、自身が身を置く閉塞的コミュニティから出ずに活動するようになっていた。こうした動きからユーザーの入れ替わりが最も緩やかな時期だったと見る事ができる。また、システム面での変遷が無かったことからユーザー単位での技術的成熟が図られた時期でもある。この頃にクローンプロジェクトの一つであるCardWirthPyの開発が開始されている。
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安定期(1980年 - 1986年)
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「エレクトリック・ライト・オーケストラ」の記事における「安定期(1980年 - 1986年)」の解説
1980年代、映画『ザナドゥ』のサウンドトラック(1980年)の片面を担当し、担当した6曲中3曲(「オリビア・ニュートン=ジョン / ELO」名義による「ザナドゥ」含む)などが全米でヒットした。ただし芸能人であるオリビアと共演したことは、ELOのロック・バンドとしてのイメージを低下させた側面があった。 バンドは、ロイ・ウッドが脱退した『ELO2』以降、中心メンバーであるジェフ・リンがほとんど全曲を一人で書き、プロデュースしてレコードを制作していた。9thアルバム『タイム』(1981年)以降は更に顕著になり、リンのソロ・プロジェクト的な色合いが強まった。ルイス・クラーク解雇以降、売りであったストリングスサウンドは姿を消し、シンプルなポップ・ロックを志向するようになる。日本ではヒットが出なくなるが、アメリカでは「ホールド・オン・タイト」が81年にヒットしている。また83年の「ロックンロール・イズ・キング」もジェフ・リンのロック志向が出た佳曲だった。 また、この頃から契約中のエージェント「ドン・アーデン・マネージメント」とバンドの関係がこじれ始め、1981年の全米ツアー(『タイム』ツアー)は、思うようにライブスケジュールを組むことができず、中途半端な規模で半ば中止されるような形で終わってしまう。10thアルバム『シークレット・メッセージ』(1982年)発表時にはライブツアーの予定すら組まれなかった。 1980年代中盤頃、バンドとレコード会社の間の契約問題で活動が停滞し、更にメンバーのケリー・グロウカットが、リンとマネージメントを訴えるという事態が発生。バンドに嫌気が差したリンは、11thアルバム『バランス・オブ・パワー』(1986年)の発表と幾つかのギグ参加を最後に活動を放棄し、バンドは自然消滅した。80年代後半にはジェフ・リンは、ボブ・ディラン、ジョージ・ハリスン、トム・ペティ、ロイ・オービソンらと「トラベリング・ウィルベリーズ」を結成した。
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安定期 (1970年代 - 1994年)
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「SLベンフィカ」の記事における「安定期 (1970年代 - 1994年)」の解説
1970年代には欧州カップ戦での存在感がやや薄れたが、ポルトガル国内では主役の座を維持し、プリメイラ・ジヴィゾンで6回(1970-71、71-72、72-73、74-75、75-76、76-77)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで2回(1969-70、71-72)優勝した。1970年から1974年まではイングランド人のジミー・ヘイガン監督に率いられ、ヘイガン監督指揮下で4個のタイトルを獲得した。1971-72シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは準決勝に進出してヨーロッパ中から注目を浴びたが、AFCアヤックス(オランダ)に2試合合計0-1のスコアで敗れた。1972-73シーズンのリーグ戦は30戦無敗(28勝2分)で、シーズンを無敗で終えたポルトガル初のクラブとなった。このシーズンには23試合連続勝利の記録も樹立した。すでに選手経歴の晩年を迎えていたエウゼビオが40得点を挙げ、リーグ得点王に輝くとともにヨーロッパ・ゴールデンシュー(ヨーロッパ全体の得点王)にも輝いた。チーム全体では101得点を挙げたが、1シーズンで100得点を超えたのはクラブ史上2度目のことだった。1975年、33歳のエウゼビオはモザンビーク独立と時を同じくしてポルトガルを離れ、アメリカのクラブに移籍した。 1970年代後半から1980年代初頭にかけてのベンフィカは問題を抱えたが、1982年から1984年に指揮を執ったスウェーデン人のスヴェン・ゴラン・エリクソン監督の下で持ち直した。エリクソンが初めて海外のクラブの指揮を執ったのがベンフィカであり、就任時にはまだ34歳だった。就任初年度となる1982-83シーズンには国内2冠を達成し、1982-83シーズンのUEFAカップでは決勝でRSCアンデルレヒト(ベルギー)に敗れたものの準優勝した。この時期にはルスの増築工事が完成して3階席がオープンし、最大で120,000人(固定座席に限らなければ135,000人)を収容するルスはヨーロッパ最大のスタジアムとなった。1986-87シーズンには9度目のダブル(2冠)を達成したが、これが今日に至るまでの最後のダブルである。1988年から1994年には、再びUEFAチャンピオンズカップで優勝するために巨額の投資が行なわれた。1987-88シーズンと1989-90シーズンには決勝に進出したが、それぞれPSVアイントホーフェン(オランダ)とミランに敗れ、欧州カップ戦の決勝では6連敗となった。この時期にはプリメイラ・ジヴィゾンで3回(1988-89、90-91、93-94)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで1回(1992-93)優勝した。
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安定期(1996年 - 1999年)
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「とんねるず」の記事における「安定期(1996年 - 1999年)」の解説
コンビ人気が安定期を迎えていた1990年代後半(特に1996年以降)に差し掛かると、ピンでの活動も活発になり始める。 木梨は1996年5月、「憲三郎&ジョージ山本」という演歌ユニットでヒットし、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ『甘い結婚』(フジテレビ)で個人初主演を果たした。 一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組『うたばん』(TBS)の放送が始まり、2010年3月まで13年半続いたメジャー音楽番組となった。また1997年2月に工藤静香とのユニット「Little Kiss」がヒット。1998年7月には三谷幸喜脚本のドラマ『今夜、宇宙の片隅で』(フジテレビ)に主演した。 1997年3月、『とんねるずのみなさんのおかげです』が完全終了した。同年6月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』と改題、リニューアルし放送開始。この頃には出演する番組が軒並み高視聴率を記録している。またコンビ・個人合わせて最もレギュラー番組を抱えていたのがこの時期である。 2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ音楽ユニット『野猿』で1998年4月にデビューし、2001年までCDのリリースやコンサート開催などの活動を展開した。2人が音楽活動で揃うのは1996年にシングル「おまえが欲しい」を発売して以来2年ぶりとなった。
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