安定期間から深夜放送長期低落傾向へ(1986年 - 1999年)
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「オールナイトニッポン」の記事における「安定期間から深夜放送長期低落傾向へ(1986年 - 1999年)」の解説
1980年代中盤以降、約10年間はライバルであるTBSラジオの深夜番組が定着せず迷走し、また文化放送も『ミスDJリクエストパレード』以降長らく深夜放送に力を入れなかったことから、「若者向け深夜放送=オールナイトニッポン」という図式が一番確立していた時代でもある。 1985年に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズや圭修が土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の1986年4月より土曜も2部制に移行)、1988年からはニューミュージックの大御所・松任谷由実が土曜1部を担当し1999年までの長期にわたる活躍をすることになる。 1986年10月1日には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、中島みゆき、とんねるず、小泉今日子、ビートたけし、サンプラザ中野、ABブラザーズの当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には1985年6月15日開催の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場での「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」のスピンオフ企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。 1980年代半ばから1990年代初頭にかけてはバンドブームが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。1部ではサンプラザ中野・デーモン小暮・大槻ケンヂ・木根尚登などが、2部では渡瀬マキ(LINDBERG)・寺田恵子(SHOW-YA)・AYAKO(PINK SAPPHIRE)・川村かおり・THE東南西北などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。続く1990年代前半も電気グルーヴ、YUKI(JUDY AND MARY)、吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)、大江千里、小沢健二とスチャダラパー、EAST END×YURIなどの有名どころから、コアなファンが多い加藤いづみや石川よしひろまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。 お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部でとんねるずが登場、さらに1989年には金曜1部でウッチャンナンチャンが登場する。落語家の弟子であった伊集院光が水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。1980年代を駆け抜けたビートたけしは途中代役を立てながら1990年まで番組を継続したが、その後はたけし軍団の浅草キッドなども担当。1993年に松村邦洋が、そして1994年には、2014年9月までの長期に渡りパーソナリティを務めたナインティナインが登場する(2014年10月2日から2020年5月7日は岡村隆史が単独で担当し、2020年5月14日から第2期として放送開始となった)。 また、この時代には1970年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。トップアイドルだった小泉今日子が水曜1部に登場したのは1986年。その後も、女性アイドル担当番組は裕木奈江・穴井夕子など散発的に見受けられる様になった。他に、劇団『第三舞台』を主宰していた鴻上尚史、雑誌『週刊プレイボーイ』編集者の小峯隆生、漫画家さくらももこなど。極め付きは1992年に開催された『全日本パーソナリティ選手権』優勝者で素人であった浪人生松永並子&北原ゆきを水曜2部に起用したことである(前述の穴井夕子は、この2人が受験勉強のために休んだ間の6週間限定での登板であった)。後に芥川賞作家となった辻仁成も、この時代にECHOESのボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。福山雅治(1992年1月から1994年6月、同年11月から1998年3月、及び2000年4月から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを発掘し番組で育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。 1991年10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。また、1997年10月から1998年3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『オールナイトニッポンDX』が、19:00 - 21:00に放送されている。 しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化やビデオデッキ、ゲーム機、パソコン、携帯電話の普及などによって、若年層を中心としたラジオ離れが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。さらに同じラジオ業界内でも1980年代末以降の民放FM局急増、『スーパーFMマガジン』(TOKYO FM)『FMナイトストリート』(JFN)など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作する様になったことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少など、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。1992年10月改編では「一新」と言われたほどそれまでにかつてなかったレベルのパーソナリティ入れ替えを行い(現状維持はウッチャンナンチャンと松任谷由実のみ、加藤いづみ、電気グルーヴ、福山雅治が2部から1部に昇格、2部は総入れ替え)、更にこの時に立てられた企画としてリスナー間コミュニケーションの強化を目的とした「オールナイトニッポンクラブ(仮)」の設置、新人パーソナリティ発掘のために半年ごとに開催する「ゴールデンベロー賞」の開催、番組ノベルティ販売や番組会報の発行などがあったが、結局これらのほとんどは頓挫した。そして番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、ナインティナインのオールナイトニッポン宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、1960 - 1970年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が垂れ込めていた。その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。 1998年春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)がR(リラックスの略)がついた『オールナイトニッポンR』に改称。金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。この時期にはインターネット放送でのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「LFX488」に生かされた。
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