25年目
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1997年になり、事件発覚当時民青同盟中央常任委員であり、各方面分派の中心人物であった川上徹が、自身が党規約違反していた内容は伏せたまま、その体験を市民的感情に訴えるよう綴った『査問』を発表した。この時、川上は共産党機関紙『赤旗』紙上に、自己の経営する「同時代社」の書籍の広告掲載を依頼し、これを断った共産党の対応をも話題としている。 日本共産党は『査問』刊行に対抗して、1998年1月20日付『赤旗』に反論文「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか」を掲載。川上徹の著作は、共産党が分派参加者の自己批判と更生に配慮して、分派の具体的な実態や構成員を公表しなかったことを悪用し、事件をあたかも「冤罪」であるように偽っていると批判した。 民青同盟静岡県委員長を罷免された後、27年間沈黙を守っていた油井喜夫も、川上徹の『査問』刊行に呼応して1998年に日本共産党を離党。1999年に『汚名』を、翌年には『虚構』を著した。新日和見主義分派は「宮本式偽造分派基準によるでっち上げ分派」であり、自身は分派結成にはまったく無実であると主張した上で、自らの体験をもとに事件及び日本共産党が行った査問の実態を告発した。 なお、『汚名』出版と同年に、高野孟も自身の個人ウェブサイトで事件の体験を「自分史」の一部として発表した。党本部で1週間にわたる査問の結果、「反省文」の提出をさせられたが、新日和見主義分派とは無関係と認められ解放されたと回顧している。 2001年に出された川上の『査問』文庫版に加藤哲郎は「査問の背景」と題する解説を寄せている。加藤は「党史上最大の人権侵害事件」と評し、ハンセン病元患者への日本政府の対応にもなぞらえた上で、「被害者たちに謝罪するのは、いつになるのであろうか?」と市民社会の論理に従い、川上ら「被害者」に謝罪するよう共産党を諫める論調であった。 これら一連の出版物がジャーナリスティックに取り上げられた。事件を従来言われていた理論問題や分派的活動という党規約違反といった観点から論じるのではなく、分派摘発時の党組織の実態がクローズアップされ、事件は日本共産党の閉鎖的体質が最も顕著に現れたものと位置づけるキャンペーンがなされた。共産党側の反論より、川上らの著作を重視し、彼らを被害者とする論調が十年にわたって主流を占めた。
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