安定期から落城へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 15:21 UTC 版)
満雅の代までの北畠氏は北朝や室町幕府と対立してきたが、北畠教具は赤松教康を殺害したことで幕府の心証を良くし、文明16年(1484年)4月に9代将軍足利義尚は伊勢神宮への参詣途上で霧山城に立ち寄っている。明応8年(1499年)に霧山城は焼失し、永正3年(1506年)に再建された。時代は下って大永2年(1522年)7月には連歌師の宗碩(そうせき)が霧山城下を訪れ、以下のように記している。同年の10月には、同じく連歌師の宗長が城下を訪れ、2、3日ほど滞在した。 夜になりて多芸へ行きつきぬ。かれへは管領の御文あればつけ侍りぬ。又のあした北畠の少将家に参る、御対面あり、それよりいそぎたちて相可といふ所に行ぬ。 — 宗碩『佐野のわたり』 永禄(1558年 - 1570年)末期になると、織田信長が北勢(伊勢国北部)に侵攻してきたため、霧山城に次ぐ要衝であった大河内城へ本拠を移した。『甲陽軍鑑』にも 「 国司の居城は伊勢たけいと云所なれ共、敵に奥まれ押こまれはとて、おかはちと云城に籠給ふ 」 と記載されている。霧山城には城代として北畠政成を残した。さらに木造城(こつくりじょう)主の木造具政は北畠本家に対して永禄12年(1569年)5月に謀反を起こし、同年8月には信長が木造城入りした。そして北畠と織田の戦闘が阿坂城とその支城の高城、そして船江城を舞台に繰り広げられ、同年8月28日(10月8日)には大河内城の戦いが始まった。この戦いでは、50日に及ぶ籠城戦の末、信長の子・織田信雄を北畠具房の養子にするなどの条件で和睦した(大河内城の戦い)。 天正3年(1575年)、信長は具房を隠居させ、信雄を大河内城から度会郡の田丸城へ移した。そして翌天正4年(1576年)11月、信雄は討主に命じて多気郡の三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と北畠一族の13人を殺害し、事実上北畠氏は滅亡した。三瀬御所で具教が殺害された直後、霧山城にも羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信らが率いる大軍が送り込まれ、城代の政成は必死に防戦したが、城館を焼き払われ、落城した。(三瀬の変)
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