三瀬御所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 16:06 UTC 版)
天正4年(1576年)11月、信長・信意親子は北畠一族の抹殺を画策。信長は藤方朝成・長野左京亮・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ、具教殺害を指示した。この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加は避けたものの結局は家臣の軽野左京進を参加させた。 11月25日、滝川雄利・柘植保重・軽野左京進の3名の軍勢が三瀬御所を包囲。内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。 しかし一説には具教は19人を斬り殺し、100人に傷を負わせたという。その後、長野左京亮によって討ち果たされた。享年49。 その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男・徳松丸、五男・亀松丸らも殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は混乱状態となった。 三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。
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