北畠家時代とは? わかりやすく解説

北畠家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 20:54 UTC 版)

織田信雄」の記事における「北畠家時代」の解説

永禄12年1569年)、父・信長北畠家攻略戦和睦条件として、北畠具房養嗣子となって、具房の妹の雪姫北畠具教の娘)を娶った元亀3年1572年)に元服して北畠具豊称した天正2年1574年7月には北畠軍を率いて第三次長島侵攻参戦し大船乗って戦った天正3年1575年)に北畠家家督相続し大河内城から度会郡田丸城移った同年越前一向一揆討伐参戦し塙直政滝川一益神戸信孝長野信良と共に転戦したこの頃から津田一安補佐の元、家中実権掌握し始める。 家督相続後は信意に改名天正4年1576年11月25日滝川雄利長野左京亮軽野左京進命じて多気郡三瀬御所攻撃させ、北畠具教と具教の息子2人北畠家14人を殺害した同日、信意自身田丸城長野具藤北畠一族饗応偽って呼び出し謀殺した(三瀬の変)。12月15日には滝川雄利柘植保重讒言により津田一安粛清している。その後北畠家南伊勢5郡の勢力は、そのまま信雄の権力基盤へと継承されていく。 天正5年1577年)、織田信忠の下で紀州征伐従軍天正6年1578年4月信忠の下、石山本願寺攻める。5月播磨国従軍信忠と共に神吉城攻める。 天正7年1579年9月16日、信意は信長無断自身8000人、柘植保重1500人の兵を率いさせ、伊賀国に3方から入り伊賀惣国一揆攻めたが、伊賀十二人衆呼ばれる自治集団大敗し殿軍柘植保重植田光次討ち取られた。これを受けて信長に「親子縁を切る」とまで書状脅され叱責された(第一次天正伊賀の乱)。 天正8年1580年)、田丸城焼失したため、松ヶ島城築いて居城とした。天正9年1581年)には、信長司令して、大和近江伊勢軍勢に信意も加わり再度伊賀侵攻し同国平定した(第二次天正伊賀の乱)。

※この「北畠家時代」の解説は、「織田信雄」の解説の一部です。
「北畠家時代」を含む「織田信雄」の記事については、「織田信雄」の概要を参照ください。

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