北畠家時代
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永禄12年(1569年)、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠具房の養嗣子となって、具房の妹の雪姫(北畠具教の娘)を娶った。元亀3年(1572年)に元服して北畠具豊と称した。天正2年(1574年)7月には北畠軍を率いて第三次長島侵攻に参戦し、大船に乗って戦った。天正3年(1575年)に北畠家の家督を相続し、大河内城から度会郡の田丸城へ移った。同年、越前一向一揆討伐に参戦し塙直政・滝川一益・神戸信孝・長野信良と共に転戦した。この頃から津田一安の補佐の元、家中の実権を掌握し始める。 家督を相続後は信意に改名。天正4年(1576年)11月25日、滝川雄利・長野左京亮・軽野左京進に命じて多気郡の三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と具教の息子2人と北畠家臣14人を殺害した。同日、信意自身も田丸城に長野具藤ら北畠一族を饗応と偽って呼び出し謀殺した(三瀬の変)。12月15日には滝川雄利と柘植保重の讒言により津田一安を粛清している。その後の北畠家の南伊勢5郡の勢力は、そのまま信雄の権力基盤へと継承されていく。 天正5年(1577年)、織田信忠の下で紀州征伐に従軍。天正6年(1578年)4月、信忠の下、石山本願寺を攻める。5月、播磨国に従軍。信忠らと共に神吉城を攻める。 天正7年(1579年)9月16日、信意は信長に無断で自身で8000人、柘植保重に1500人の兵を率いさせ、伊賀国に3方から入り伊賀惣国一揆を攻めたが、伊賀十二人衆と呼ばれる自治集団に大敗し、殿軍の柘植保重は植田光次に討ち取られた。これを受けて信長に「親子の縁を切る」とまで書状で脅され、叱責された(第一次天正伊賀の乱)。 天正8年(1580年)、田丸城が焼失したため、松ヶ島城を築いて居城とした。天正9年(1581年)には、信長が司令して、大和・近江・伊勢の軍勢に信意も加わり、再度伊賀へ侵攻し、同国を平定した(第二次天正伊賀の乱)。
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