第一次天正伊賀の乱
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「比自山城の戦い」の記事における「第一次天正伊賀の乱」の解説
「天正伊賀の乱#第一次天正伊賀の乱」も参照 やがて伊賀のすべての隣国が信長に平定されると、織田氏からは頻繁に臣従するよう圧力が掛かった。そんな中、信長の次男で三瀬の変で北畠家を乗っ取っていた北畠信意(のちの織田信雄)は、自らの力だけで伊賀を平定すれば父に功を称されるだろうと考えていた。信意は家老の柘植保重の進言と伊賀衆の一人である下山甲斐守の内通により伊賀侵攻を決意し、まず滝川雄利に丸山城の再建を命じた。しかし丸山城は伊賀衆に奇襲され焼き払われた。これに激怒した信意は柘植に1,500人、自らは8,000人の手勢を率いて3方から伊賀に侵攻した。しかし伊賀衆の激しい抵抗により殿軍の柘植保重と約6,000の兵が討ち死にするなど大敗を喫した。これについて信長は「自らの力で平定すれば功を称されるだろうという考えは若気の至りであり、父・信長の許可無く攻め込むとは許し難い」として信意を蟄居させた(『信長公記』)。また、この敗戦を期として信意と下山甲斐守の間も不和となり、信意は下山に蟄居を命じた。
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第一次天正伊賀の乱
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北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。 これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、 「 丸山城指図 山城也、此山根置周取廻六百九十六間、山下地形よ里山までの高サ三十間有南方を正面とす 麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間 山下整地広さ南北四十四間 東西二十五間 右整地之内に三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり 」 —伊賀旧考 とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。 すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。 翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。
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