第一次大火後の都市計画
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市民生活の復旧作業と並行して、政府への復興援助への要請のため、県からは小畑民生部長、市からは柳谷市長、藤原与市市会議長らが上京し、3班に分かれて陳情活動を行った。しかし、年度末で援助に対する予算がなく、加えて当時示されたばかりのドッジ・ラインにより財政均衡の遵守を求められていたこともあって、捗々しい反応を得られなかった。それでも3班合同で閣議直前の閣僚1人1人をつかまえて熱心に被害状況を訴えた甲斐もあり、内閣調査団の派遣にこぎつける事が出来た。浅岡信夫厚生政務次官、堀末治地方財政政務次官らからなる内閣調査団は3月31日に来能、被災状況を視察の上、仮市役所にて懇親会に望んでいる。 また、復興のための新たな都市計画案が提示された。大火からわずか4日後の2月24日には、市当局から『能代市復興都市計画』が発表されている。その要旨は以下の通りであり、当該部分について『能代30年の歩み―戦後の証言』189頁よりそのまま引用する。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}火災の経験、交通上、風致上の見地より市街地を東西二本、南北二本の幅員二二~二四メートルの防火帯で分割し、充分なる植樹と貯水槽を設け、防火機能を拡充する。 焼失区域内の寺院・墓地は市街地外に移転し、跡地は公園として保存する。 焼失した第二中学校は焼失区域外に移転し、公会堂、公民館などの公共施設の建築敷地として利用する。この敷地の前には広場を置き、大貯水槽を設ける。 旧来の街路面積は市街地面積の五%にすぎず、建築密度が過大であったから、街路公園、防火帯などの公共空地を市街地面積の三五%程度とする。 街路は東西に幅員一八メートルの交通幹線を設けるほか、一二~一五メートルの街路を配し、鉄道沿線、米代川沿い旧国道には八メートル街路を置く。 以上の街路に包まれた街廓に幅員六メートルの細街路を配置し、常時の利用と共に防火活動に資する。 鉄道以西の焼失区域一帯約十九万坪の地積に対しては、都市計画土地区画整理事業を行う。 土地区画整理の実施に当たって建築物の復興を容易ならしめるため、速やかに土地使用区域を指定する。これがために、土地各筆の従前の面積は実測によらず、土地台帳地積とし、減歩率は三割とする。 土地使用区域の指定は三ヵ月程度を目標とし、土地区画整理事業、街路防火施設の整備などは昭和二十七年三月完成する。 焼失した中島橋、中島原橋は復旧架設する。 —『能代30年の歩み―戦後の証言』1977年、北羽新報社編 この原案は、24日の「災害復興対策協議会」で審議され、早速紛糾したものの建設省の広瀬技官の要請もあり原案を可決した。公開されたこの計画案は同じように市民の大きな反響を呼んだ。モータリゼーション以前の当時、地方の小都市において幅員30メートルの道路は破格の計画だった。宏大な道路計画によって土地の提供を余儀なくされる市民には反対意見も多くあったが、結局は半年で都市計画の大綱は受け入れられた。区画整理の換地割り当ては同年7月中に完了、8月15日までに杭打ちを終え、9月には畠町通り拡幅に着手している。 この大火では主だった官公庁が軒並み焼失したため、どこで復旧させるかが復興計画の大きな焦点となった。6月1日に蓮池公咲県知事が来能しているが、この時知事からは焼失した官公庁を罹災区域の外に移転するべきだとする意向が示されている。しかし、元の位置で復興してほしいという住民の意向が強く、市役所、市警察署、裁判所、郵便局は元の位置で復興することの内定を得た。山本地区警察署は図書館跡に、山本地方事務所、能代保健所の県施設2つは民生病院跡に、民生病院は長慶寺跡への移転が決まった。新たな市庁舎は市長の柳谷と第二高等学校及び東京帝国大学で同門だった武藤清東京大学教授に設計を依頼。施行は清水組が1,441万円余で落札し、9月に着工、翌1950年(昭和25年)5月に竣工している。この市庁舎は戦後復興期の庁舎建築の好例として2007年(平成19年)7月31日付で登録有形文化財として登録されており、2017年に市役所新庁舎が業務開始した後も、一体の施設として現役で使用されている。また、同じく1950年10月には市役所庁舎の西隣に公民館兼図書館が完成。これは大火の被害にあたり全国から寄せられた義援金を活用して建設された。この公民館兼図書館も後に市役所第四庁舎となり、2016年(平成28年)まで使用された(2017年12月解体)。 被災者向けの復興住宅は、米代川対岸の向能代地区(向ヶ丘、緑ヶ丘)に住宅団地が建設された。それまで能代市では戦後の住宅難に際して睦町、豊祥岱に市営住宅を供給してきたが、向能代地区が新たな候補に挙がった折、財政窮迫を理由に一旦建設が保留されていた。しかしこの見合わせは大火発生の前日の出来事であったため、大火後に応急住宅が必要になった際に真っ先に候補地となり、建設省と協議の上で向ヶ丘(五能線東側)に応急住宅215戸の建設を発表、続いて緑ヶ丘(五能線西側)に140戸、また万町に第一、第二アパート36戸の建設を打ち出した。市が投じた事業費の総額は5,900万円に上った。また、県は1,000万円を起債して県営住宅104戸を建設している。それまで渟城第二小学校を避難所としてきた被災者も5月には向ヶ丘住宅の完成により移転、渟城第二小学校の授業再開は校舎清掃のためやや遅れたものの、6月には近隣の渟城第一小学校、渟城第三小学校から引っ越して21日に帰校式を行い、4ヶ月ぶりに再開した。また、新たに住宅街となった向能代地区では、1952年(昭和27年)に五能線向能代駅が開業している。
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