第一次大火の被害状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 23:14 UTC 版)
この火災では3名の死者と、132名の負傷者という人的被害を出した。住家1,295棟、非住家942棟が焼失、また破壊消防によって5棟が破壊された。被災世帯数は1,755世帯で、8,790人が被災している。火災発生から10日間、渟城第一、第二、第三小学校を休校とし、縁故者のいない被災者333名がこれら3校及び能代工業高校に分けられて収容された。 被害範囲は東西約1,500m、南北約800mに及び、焼失面積約25万2,000坪(およそ83.6ha)は、当時の市街地のおよそ42%に達した。被害が出た町名は、上町、万町、馬喰町、羽立町、上川反町、仲町、幸町、大町、畠町、後町、清助町、下川反町、富町、寺町、長根町の15町に及んだ。焼失した区域には473棟の土蔵があったが、焼け残ったのは127棟だけで、大部分の土蔵が持ちこたえられなかったことが火勢の強さを物語る。当時の市街地は製材所や木工所が各所にあり、木材や板材といった可燃物が多かったが、これらが火柱となって飛び、文字通り飛び火して被害を拡げた。さらに丸太は青光りする炎を上げて飛びながら燃えたという証言が、当時の能代市長柳谷清三郎から残されている。 また、この火災では市民生活に関わる施設の多くが被害を受けた。市役所をはじめ、警察署(能代市警察署、山本地区警察署)・裁判所・郵便局・営林署・食糧公団・信用組合・勧業銀行支店・青森銀行支店・民生病院などが軒並み焼失。市当局では夜明けとともに市役所に隣接する渟城第二小学校を仮の市役所として定め、罹災証明の発行など当面の対策を開始した。また、県からは小畑勇二郎民生部長(のちの県知事)が来能して現地指導を始め、各地からは救援物資を積載したトラックが次々到着した。翌21日から渟城第二小学校を拠点として配給を行うため、周知のためラジオ放送を依頼、トラックや回覧板を通じて市民に周知を図り、証明書発行の準備にあたるなど当日は徹夜で準備作業が行われた。第1回目の配給では、食パン1人1個、乾パン2人につき1袋、マッチ、作業着、手ぬぐい、足袋、1世帯につき1反のメリヤス、味噌1人5匁(5日分)、醤油1人1合(5日分)が配分された。米は食糧営団によって配給された。 被害総額は、鎮火直後の市役所の見積もりでは約34億円程度とみられていたが、能代市警察署による最終的な調査では47億2,500万円に達した。火元は当初より特定されていたが、火災原因はその後4ヶ月にわたって慎重に捜査され、火元となった木工所にあったストーブの残り火が付近のカンナ屑に燃え移ったものと推定して、6月23日に同所の単独失火と断定した。これに基づいて火元宅を重失火及び過失致死罪で書類送検したが、同家からは横塀からの出火を理由に失火説を否定して放火ではないかと主張した。このため検察でも慎重を期して検討が行われ、10月4日に結論が発表された。結論としては、工場からの出火は推定できるがストーブが原因かどうか明確でないこと、一方で火元側が主張している放火説の証拠も成り立たないことから、重失火及び過失致死については不起訴となった。一連の捜査の中でも、一次火災と二次火災の関連性について明確とならなかった。
※この「第一次大火の被害状況」の解説は、「能代大火」の解説の一部です。
「第一次大火の被害状況」を含む「能代大火」の記事については、「能代大火」の概要を参照ください。
- 第一次大火の被害状況のページへのリンク