第一次大本事件とは? わかりやすく解説

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第一次大本事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:41 UTC 版)

出口王仁三郎」の記事における「第一次大本事件」の解説

日本政府は「国家神道」と食い違う神話解釈行いメディア通じて信者数拡大し陸海軍上流階級まで影響力を持つようになった大本危機感覚えた。さらに浅野たちが黙示録的予言メディアで全国宣伝したため国内騒然当局懸念はますます強くなった。内務省が公式に警告発し王仁三郎警察呼び出され注意受けている。教典大本神諭火の巻)』は不敬判断され発禁になった陸・海軍大臣は軍内における大本信者一掃通達している。原敬首相1920年大正9年10月日記大本への不快感記した政府上層部だけでなく、多く文化人知識人宗教界既存メディア大本非難政府元信者が大本を「皇室尊厳冒涜した」「王仁三郎陰謀家だ」「日本神話勝手な解釈加えた」などと告発したのをきっかけに、1921年大正10年2月12日不敬罪新聞紙法違反として弾圧加えた(第一次大本事件 )。80名が検挙されたが、最終的に王仁三郎浅野吉田祐定(印刷出版責任者)が京都地裁起訴された。開廷9月16日)から判決10月5日)まで25日という裁判で、王仁三郎新聞紙法違反不敬罪懲役5年浅野10ヶ月吉田3ヶ月という判決下った不敬理由教団施設破壊が行われたが、決定的な打撃とはならなかった。1924年大正13年7月21日大阪控訴審判決第一審判決踏襲裁判間中王仁三郎モンゴル滞在のため出廷せず)、1925年大正14年7月10日大審院では前判決破棄判決下り事実審理からやりなおす1927年昭和2年5月17日大正天皇崩御により控訴審終結したが、内務省大本壊滅させる機会伺っていた。一方王仁三郎天理教金光教のように教派神道として公認される道を選ばず、自らのカリスマ武器に独自の教義維持して活動続ける。 詳細は「霊界物語」を参照 1921年6月17日王仁三郎保釈されたが、大正日日新聞社の経営悪化莫大な借金重ね10月5日有罪判決10月11日綾部本宮山神殿破壊命令くだった10月14日、「皇道大本」を「大本」に改名し夫妻幹部含め総辞職長女直日20歳)に教主の座を委ねた10月18日自身教義と体験の集大成として『霊界物語』の口述始めた400字詰原稿用紙で約300一巻平均3日製作した速度超人的とされる1935年弾圧事件まで8183冊が発刊され長編の『霊界物語』では神界幽界及び現界通じた創造神である主神(すしん)の教えが、さまざまなたとえ話用いて説かれており、教団内では人類救済福音としての味がある位置づけている。第一次大本事件の一因となった予言終末論による暴走押さえるべく、なおの教義大本神諭)と信奉者王仁三郎権威克服する計画という見解もある。発禁となった神諭に対し当局干渉避けるべく「立替え立直し」の思想比喩隠喩包み込んだ新教典が必要となったという事情もあった。一連の事件と『霊界物語』の教義化により、浅野谷口友清歓真をはじめ多く幹部信者教団去った王仁三郎娘婿出口日出麿出口宇知麿新たな幹部として重用していく。また活動拠点綾部から亀岡移し綾部祭祀本部亀岡宣教本部定義した。ここにもなお(厳霊、日、火、天照大神)と王仁三郎(瑞霊、月、スサノオ)の二重構造と「型の反復」という大本構図見られるこの他にもさまざまな活動行った日本コロムビア大本人気見込んで王仁三郎アルバムを9発売した柳原白蓮大正天皇従兄妹)が離婚スキャンダル巻き込まれた際、王仁三郎頼ってきた白蓮綾部にかくまい、黒龍会内田良平対立している。1922年大正11年3月全国水平社結成される初代委員長南梅吉尋ねて激励し財政的支援行った1923年大正12年)にはローマ字取り入れ、またバハイ教布教師フィンチルートまたロシア作家ヴァスィリー・エロシェンコとの交流機に国際語エスペラント教団活動への導入始めた1918年大正7年)に欧州から帰国した陸軍将校秦真次王仁三郎語ったのが最初ともいわれる王仁三郎自身1923年7月1週間同志社大学重松太喜三を綾部招いたエスペラント講習会で、150人の生徒一人としてエスペラント学習した。後の満州国建国に際して石原莞爾連携し大本エスペラント満州広めるという計画もあったが実現しなかった。

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第一次大本事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:30 UTC 版)

大本」の記事における「第一次大本事件」の解説

1921年大正10年)に起きた事件である。不敬罪新聞紙法違反容疑王仁三郎逮捕された。1927年昭和2年)に恩赦大正天皇大葬による)が行われ、裁判自体消滅事件終結したこの間一部信者教団離脱した生長の家を後に興した谷口雅春当時大本信者であったが、明治55年1922年大正11年)に起こると予言された「立替え」が起こらなかったので不信生じ事件に際して教団去っている。

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