第一次大戦終結とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:00 UTC 版)
「ヒューゴ・シュマイザー」の記事における「第一次大戦終結とその後」の解説
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは1919年に締結したヴェルサイユ条約により国内での武器・兵器開発の禁止、兵器の輸出入の禁止などが定められた。そのため軍の兵器の生産は外国の武器メーカーからライセンス生産するようになった。大戦後、ルイス・シュマイザーは30年間勤めていたベルグマン社を引退した。だが息子のヒューゴ・シュマイザーはその後も弟のハンスと共に武器開発の仕事を続けることを決め、ズールに新たに会社を設立した。しかし敗戦により多額の賠償金に苦しむドイツ国内で仕事などほとんどあるはずが無かった。そこでヒューゴは条約を無視し、禁止されていた武器の開発を密かに続けた。またこのとき、同じくズールにあった武器製造企業のハーネル社と業務提携を開始、以来この提携は20年間続いた。その一方ヒューゴは彼の製造した武器の特許を守るために1922年夏に、「ブラザーシュマイザー」という名前で第2の会社を設立した。これは最初に設立した会社「Auhammer社」が仮に倒産しても彼の製品特許は第二の会社に委託され、特許の喪失を防ぐ作戦だった。また両社の破産を防ぐため、ハーネル社により一層の連携を取るためAuhammer社は合併を行った。合併に成功したヒューゴ・シュマイザーはこの合併会社の大株主になった(名目上はハーネル社の社員として)。 1928年に入り、ヒューゴ・シュマイサーはMP28を開発した。やっと完成した試作銃をヒューゴは早速、軍に売り込みをかけた。しかし出始めてまもない会社では軍部を納得させることができず失敗、そのため軍ではなくドイツの警察によって使われることとなった。その後MP28は南アフリカ、中国、スペインと日本など多数の国々に輸出された。
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