大本神諭との関係
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最初の神懸かりの翌年1893年(明治26年)、なお(直)は放火犯と誤認逮捕されたことがきっかけで、自宅の座敷牢に監禁された。この時、牢内で釘を使って書いた文章が「筆先」のはじまりとされる。文盲のなお(直)がつづった文章は平仮名と数字のみで構成され、限られた信者のみに清書することが許された。また漢字に置き換えることは神示によって王仁三郎だけに与えられた特権であり、彼の手により編集された筆先は1917年(大正6年)の機関誌「神霊界2月号」に『大本神諭』として発表された。多くの軍人や知識人を大本に入信させるほど強い影響力を持った書だが、1920年(大正9年)8月5日に『大本神諭・火の巻』が発禁処分となる。さらに文章を文字通りに解釈した浅野和三郎を始め多くの幹部・信者が終末論に走り全国に宣伝、第一次大本事件の一因となった。王仁三郎はなお(直)の権威で書かれた『大本神諭』を克服するために『霊界物語』を著したという指摘もある。一方『大本神諭』が発禁となり、終末論的な社会改革運動が弾圧されたことで、新たな教義と教典が必要になったという側面もある。教団の内部事情と当局からの弾圧が、複雑で曖昧な新教典を形成したといえる。安丸良夫は、王仁三郎と大本が『霊界物語』の教典化や国際的平和主義への対応、昭和初期の超国家主義運動団体化などさまざまな変貌を遂げつつ、千年王国主義的救済思想を維持し続けたと指摘した。 『霊界物語』では、『大本神諭』について「そもそも教祖の手を通して書かれた筆先は、たうてい現代人の知識や学力でこれを解釈することは出来ぬものであります。いかんとなれば、筆先は教祖が霊眼に映じた瞬間の過現未の現象や、または神々の言霊の断片を惟神的に録したものですから、一言一句といへども、その言語の出所と位置とを霊眼を開いて洞観せなくては、その真相は判るものではありませぬ。(中略)ゆゑに神様は、三千世界の大芝居であるぞよと、筆先に書いてゐられます。その各自の台詞書を集めて、一つの芝居を仕組むのが緯の役であります。ゆゑに霊界物語は筆先の断片的なるに反し、忠臣蔵の全脚本ともいふべきものであります。」と述べている。第36巻序文でも同様の事を述べ、「霊界の幾分なりとも消息が通じない人の眼を以て教祖の筆先を批評するのは、実に愚の至りであります。」と指摘している。
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