大本神諭の正当性
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『大本神諭』は開祖・なお(直)の「お筆先」を王仁三郎が編集したものであり、原文そのままではない。筆先にあった土俗性や神仏習合といった混沌が整理され、伝統的な日本神道への接近が意図されている。筆先を書かせた神は「艮の金神=国常立尊」の他にも天照皇大神、金勝要之神、竜宮の乙姫など複数存在した。「艮の金神」についても、綾部藩主九鬼家に伝わる『九鬼文書-鬼門呪詞』の主神「宇志採羅根真大神(ウシトラノコンジン)」に由来するという説もある。なお(直)の死後、王仁三郎が九鬼隆治(子爵、第21代)に宛てた書簡からもうかがえる。さらに『天理、金光、黒住、妙霊先走り、とどめに艮の金神現れて、世の立替えを致すぞよ』という表現もあり、なお(直)が先行した民衆宗教の影響を受けていることを示す。一方で、神諭の表現は立教の年代順と異なる。これは教義の親縁性による順の可能性があり、王仁三郎も大本神諭を天理教神諭と比較して両者の関係を考察した。 1916年(大正5年)12月に入信した浅野和三郎は「皇道大本」の教義形成、神諭の研究に没頭していた。1918年(大正7年)10月には『大本神諭略解』を発刊している。また王仁三郎が筆先から神諭へと編纂したと言われているが、当事者である王仁三郎も京都府警に対し『年月日と組立等を、開祖なおに尋ね乍ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」』と大正8年に発言している。第一次大本事件における当局の追及に対しては、「筆先は神霊現象で人間に責任はなく、皇道大本に不敬の意図はない」と釈明している。 王仁三郎は、開祖・なお(直)(厳霊)の役割を洗礼者ヨハネ、自身(瑞霊)をスサノオ/救世主と位置づけている。1935年(昭和10年)の第二次大本事件を回顧した歌集(1942年10月)では「筆先は 神々教祖に 懸かられて しるし玉ひし 神言なりけり」「御神諭は 毛筋の横幅も 違はぬと 月座の教祖(王仁三郎)は 宣らせ給ひぬ」「人皆を 昔の神の 大道に 改めたまふ 神諭の主意なり」「善心で 読めば善なり 悪神で 読めば怪しく 見ゆる筆先」と詠う。王仁三郎による新教典『霊界物語』第7巻総説では筆先について「1916年の神島開き(みろく神啓示)前の筆先は御修行中の産物であり、未成品」と述べ、12巻序文で「筆先は神々の言霊の断片を録したもの、演劇に例えると台詞書の抜書。霊界物語は、その各自の台詞書を集めて一つの芝居を仕組む全脚本。筆先は純然たる教典ではない」としている。第36巻序文においても、国常立尊は「大海の潮水」であり筆先は「手桶に汲み上げられた潮水」「神の演劇の台詞書のみを抜き出したもの」と定義する。平仮名のみの卑近な言であっても「神様の意志表示に就ては毫末も差支ないものである」とした上で、霊界物語は神諭を補完するものと述べている。なお(直)や王仁三郎の魂が国常立尊やスサノオ全体ではなく、その一部分であるとした。 王仁三郎は2つの和歌を残した。 「みな人の 眠りにつける 真夜中に 醒めよと来なく 山ほととぎす」 「梅の花 一度に開く 時来ぬと 叫び給いし 御祖畏し(みおやかしこし)」
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