第一次太田城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:28 UTC 版)
「太田城 (紀伊国)」の記事における「第一次太田城の戦い」の解説
太田城の攻城戦は羽柴秀吉が行った第二次太田城の戦い、水攻めが有名であるが、信長の紀州攻めの後も攻城戦が行われた。1577年(天正5年)に織田信長が雑賀城に侵攻するにあたって、雑賀衆の中にも織田信長軍に協力した者がいた。太田左近を党首とする宮郷衆らである。その織田信長軍が雑賀の地から撤退すると、これに遺恨を持っていた雑賀衆が兵をあげ報復を開始した。これに応じた織田信長は佐久間信盛を総大将に八万の増援軍を雑賀を送り込んだが制圧に失敗した。その後、太田左近は根来寺の僧兵を味方にし、かなりの攻城戦があり一進一退を繰り返し、1カ月間も戦いが続いていたが太田城の守りは堅く雑賀衆は攻め切れず、雑賀孫一は太田左近に和睦を申し入れ停戦が成立した。また佐武伊賀守は、この城攻めについて宮郷に雑賀の者が出耕作が妨げられるので、奪い取ってしまえとなったらしく、鍬をもって堀を崩し、別動隊は根来寺や宮郷からの応援隊を迎撃した。この佐武伊賀守も根来衆の大谷某なる人物を討ち取ったようである。この話がどこまで史実に近いかは解らないが「鍬で城を崩してしまおうとは何とものびやかな話」と指摘されている。
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