第一次安城合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:51 UTC 版)
天文9年(1540年)2月、松平広忠は先手を打って尾張国鳴海城攻めるが敗北し、以後広忠は安城城の守りを固めるため城代として松平長家(清康の大叔父)を置き、その他一門衆5名と1000弱の兵を配備する。 同年6月尾張古渡城主織田信秀が刈谷城の水野忠政を伴って3000の兵(内容は織田氏の騎馬隊2000に水野氏の歩兵1000)を率いて安城城を攻撃する。織田勢は主力の騎馬隊2000を城の北方(現在の安城市上条町西部)の高台の林に置き、南方(同市の古井町西部)に水野氏の別働隊を置いた。松平勢は歩兵主体であったうえ自軍の三倍もの兵力を相手にせねばならず、劣勢は免れなかった。6月6日、松平勢は北と南に軍勢を分け織田・水野勢に斬り込みを掛けた。松平勢は善戦し、一度は織田・水野勢を後退させるも劣勢を挽回するまでには至らず、長家など松平勢の主だった武士50余人が討死し、両軍合わせて1000以上の死者が出た。いかに激戦だったかを物語っている。現在もその時に築かれた塚(東条塚、千人塚)が残っている。
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