第一次対仏大同盟: イタリアのポーランド軍団
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「ポーランド軍団」の記事における「第一次対仏大同盟: イタリアのポーランド軍団」の解説
ドンブロフスキの軍団に入ったポーランド人兵はロンバルディアの市民権を与えられ、他の軍団と同等の給与を受けた。またポーランド軍団は、若干のフランスやロンバルディアのマークを付けただけの独自のポーランド風の軍服を用いたり、ポーランド語で指揮を取ったりすることも認められた。1797年2月初頭の時点でポーランド軍団の兵数は1200人ほどだったが、まもなくオーストリア軍から脱走してきた大勢のポーランド兵が参加した。 ドンブロフスキのポーランド軍団の最初の戦場は、イタリアにおける、オーストリアとその同盟者に対する戦線であった。1797年5月、彼らはマントヴァに駐屯し、月末までにブレシアでの反乱鎮圧に参加した。4月末までに、軍団の兵数は5000人まで増加した。ドンブロフスキは、さらにオーストリア領に侵攻して旧ポーランド領のガリツィアまで攻め上るよう主張したが、ナポレオンに却下され、引き続きイタリア戦線で戦うことになった。4月、ポーランド軍団はヴェローナで発生した反乱「ヴェローナの復活祭」の鎮圧に携わった。この月、フランスとオーストリアの間でレオーベン条約が結ばれ、フランスのポーランド兵は大いに失望した。しかしドンブロフスキは、これで対オーストリア戦争が終わったわけではないと見抜いていた。 この後、フランスのポーランド軍団はドンブロフスキの一個軍団だったのが、二個軍団に増設されている。オットー・フォン・ピフカとミシェル・ロフェは、1797年5月にポーランド軍団が二個軍団に再編されたとしている。それによれば、第1軍団はカロル・クニャジェヴィチ、第2軍団はユゼフ・ヴィエルホルスキが率い、兵数はそれぞれ歩兵3750人(砲兵除く)とされた。一方でデイヴィスは、第2軍団の創設は1798年で、その司令官はユゼフ・ザヨンチェクだったとしている。1797年7月には、レッジョ・エミリアで起きた反乱の鎮圧に参加した。 1797年1月18日、カンポ・フォルミオ条約が結ばれ、正式に戦争が終結した。それでもポーランド軍団はなお次の戦争を求めていて、彼らはチザルピーナで最も親仏的な外国人部隊だと見なされていた。1798年、ポーランド人部隊はフランス軍の教皇領進出をたすけ、いくつかの農民反乱を鎮圧し、5月3日にローマに入城した。ドンブロフスキは、ここでローマの代表から数々の品を受け取った。これは元をたどると、かつて1683年の第二次ウィーン包囲でオスマン帝国を破ったポーランド王ヤン3世ソビエスキがローマに贈ったもので、中にはオスマン軍の軍旗もあった。これ以降、ポーランド軍団は自らの軍旗の一部分にこのオスマン軍旗のデザインをあしらうようになった。 1798年末まで、クニャジェヴィチ率いる軍団は、反フランス姿勢をとったナポリ王国と戦い、12月4日のチーヴィタ・カステッラーナの戦いで勝利を収めた。その後、占領したガエータから補給物資が届き、アンジュジェイ・カルヴォフスキ率いる騎兵軍団を新設することができた。その後、ポーランド軍団はマリアーノ・ヴェーテレ、ファラーリ、カルヴィ、カプアでの戦いに貢献し、ナポリ王国は1月23日に降伏した。
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