第一次川中島合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:04 UTC 版)
天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後国へ逃れ、真田幸綱は旧領を完全に回復する。義清は越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸綱は対長尾氏(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。 この頃、関東へ進出した後北条氏は上野国で上杉憲政を庇護した長尾景虎と対峙するが、幸綱は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている[要出典]。 弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。
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