真田幸綱とは? わかりやすく解説

真田幸綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/13 22:03 UTC 版)

真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国時代武将信濃の在地領主で、甲斐国戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。


注釈

  1. ^ ただし、笹本正治は諏訪氏の娘が禰津氏の養女になったこと自体が推測で、根拠にならないとしている。
  2. ^ 笹本正治は真田家文書には不自然な点があることを指摘し、他所から流入してきた可能性があるものとしている[9]

出典

  1. ^ 柴辻 1996, p. 8.
  2. ^ 「高野山蓮華定院過去帳」長野県真田町山家神社所蔵「白山神社奥宮扉永禄5年銘」
  3. ^ 柴辻 1996.
  4. ^ 平山 2011, pp. 103–104.
  5. ^ 江戸時代に松代藩により編纂された真田家系図による。
  6. ^ 矢沢氏の菩提寺良泉寺所蔵の「良泉寺矢沢系図」に拠る。
  7. ^ 猪坂直一『真田三代録 伝説から史実へ』理論社、1966年。 
  8. ^ 『真田家文書』真田宝物館
  9. ^ 笹本 2009, pp. 23–25.
  10. ^ 神奈川県立博物館所蔵文書「天文23年推定10月5日付真田幸隆宛北条氏康書状」


「真田幸綱」の続きの解説一覧

真田幸綱(幸隆)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 05:55 UTC 版)

調略」の記事における「真田幸綱(幸隆)」の解説

佐久抵抗続け望月氏一部臣従させる。『高白斎記によれば天文19年1550年9月村上義清との砥石城をめぐる戦いでは、村上氏方の国衆である清野氏や寺尾氏への調略を行う。この合戦武田方は砥石城攻略できず、大敗した砥石崩れ)。同じく高白斎記によれば天文20年1551年5月26日に幸綱は砥石城攻略している。『高白斎記』では幸綱の砥石城攻略を「乗取」と記しており、調略が行われていたと考えられている。

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