旧領回復時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:04 UTC 版)
幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸綱は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田氏方に臣従させたという。江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦している。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300 - 400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。 近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に、同じ滋野一族の禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測して天文12年説を提唱し、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦で上杉氏勢を上野国から駆逐していることから、幸綱の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の戦い敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸綱であったと推測している。
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