上野国へ亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:04 UTC 版)
甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野へ亡命している。真田幸綱が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野国に逃れている。 武田信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず天文11年(1542年)に独断で関東管領の上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。
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