第一次尼子再興運動とは? わかりやすく解説

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第一次尼子再興運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 09:14 UTC 版)

山中幸盛」の記事における「第一次尼子再興運動」の解説

尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後永禄9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取り定かでない諸説によれば有馬温泉で傷を癒した後に順礼の姿をして東国へ赴き、武田氏武田信玄)・長尾氏上杉謙信)・北条氏北条氏康)などの軍法うかがい越前国朝倉氏家風尋ね入りその後、京に上ったとされる永禄11年1568年)、幸盛は立原久綱尼子牢人とともに京都東福寺で僧をしていた尼子誠久遺児・勝久を還俗させると、各地尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興機会うかがった永禄12年4月1569年5月)、毛利元就大友氏攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵機会うかがっていた幸盛は、出雲国侵攻開始する。 このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった山名氏総帥として、長年わたって尼子氏敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後伯耆因幡毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだ考えられる。もっとも、その後毛利氏から要請受けた織田信長の軍によって領内攻められ支援はままならなかったようである。 6月23日8月6日)、幸盛らは丹後国もしくは但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興檄を飛ばすと、国内潜伏していた旧臣らが続々集結し5日の内に3,000余り軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、続いて宍道湖北岸位置する末次島根県松江市末次町現在の松江城建設地。)に城を築いてここを拠点末次城)とし、山陰地方各地合戦繰り広げつつ勢力拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。 7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏居城月山富田城攻略取りかかる尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍兵糧欠乏しつつあり、また、城内より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。 しかし、石見国活動していた尼子再興軍が、毛利軍攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援向う石見駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後出雲国内において16の城を攻略し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。 また、元就尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛三刀屋久扶などの出雲国の有力国人相次いで味方につけると、出雲国一円支配するまでになった。 さらに、伯耆国においても尾高城始め中央の八橋城因幡国との境にある岩倉城など、多く主要な城を攻略謀略用いて末吉城の神西元通を寝返らせたのをはじめ、日野郡一帯支配する日野衆味方につけるなど、伯耆国全土にも勢力拡大していった。その他、美作高田城城番をしていた姉婿佐伯七郎次郎謀略により寝返らせるなど、因幡備後備中美作においても勢力拡張し戦い繰り広げていたことが分かっている。 加えて10月11日11月19日)、大内輝弘大内家再興目指し周防国山口攻め込み築山館跡占領する事態発生する10月15日11月23日)、相次ぐ領内反乱により支配体制危機感じた元就は、反乱軍鎮圧優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する10月18日11月26日)、吉川元春小早川隆景毛利軍は、九州から陣を撤収して長府帰着すると、10月25日頃に大内家再興軍の反乱鎮圧する。輝弘は富海自刃し、大内家再興戦いは僅か半月足らず終結した大内輝弘の乱)。反乱鎮圧した毛利軍は、12月23日長府にあった陣を引き払い居城である吉田郡山城帰還している。 永禄13年1月6日1570年2月10日)、毛利輝元吉川元春小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍率い出陣する。毛利軍北上して出雲国入国すると、尼子方の諸城次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。一方尼子再興軍は、先の原手郡の戦い隠岐為清の反乱美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国拠点である月山富田城攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍進軍を防ぐため布部現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦備える。 2月14日3月20日)、尼子再興軍は、布部毛利軍戦い敗北する布部山の戦い)。幸盛は、味方敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊防いだ後に居城末次城へ帰還している。戦い勝利した毛利軍は、翌2月15日月山富田城入城し尼子再興軍の包囲から城を解放する一方尼子再興軍は、この戦い敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。 6月布部敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われるなど危険な状態となるが、9月5日10月4日)、安芸国元就重病に陥り、吉川元春残して毛利輝元小早川隆景らの軍が国許帰還する状況一変する山陰地方毛利軍手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力盛り返した。 幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城末吉城など、出雲伯耆の国境にある城を次々と奪還するとともに一時清水山要害攻略して再び月山富田城迫ったまた、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸満願寺城奪い増築する吉川元春追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢強めている。さらに、隠岐国国人隠岐弾正左衛門尉味方につけることに成功しており、日本海側制海権取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力島根半島全域にまで拡大する元亀元年10月6日1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢知らせ受けた元就は、毛利軍援護するとともに日本海側制海権奪還するため、直属水軍部隊児玉就英派遣する。この援軍によって、その後の戦い次第毛利軍優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城落城するなど、尼子再興軍の勢力次第縮小していった。 そして、元亀2年8月20日1571年9月8日)頃には、最後拠点であった新山城落城籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐逃れている。 同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ吉川元春捕らえられた。捕らえられた幸盛は尾高城幽閉されることとなったが、宍戸隆家口羽通良助命嘆願により周防国佐波郡徳地伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領与え約束なされた。しかし幸盛はこれを受け入れずその後に隙をついて脱出している。こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され1回目再興運動失敗終わった

※この「第一次尼子再興運動」の解説は、「山中幸盛」の解説の一部です。
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