第一次川中島の戦い
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天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。 武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月の更科八幡の戦いにて村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破された。上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。 同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
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第一次川中島の戦い
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天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵国松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される。 同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。 天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣。同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。 しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再び晴信自ら大軍の指揮を執って村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣。30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。 9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻して荒砥城や虚空蔵山城を攻め落とし、青柳城を放火した。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)の下に参禅して受戒し、「宗心」の戒名を授けられた。
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