第一次川中島の戦いとは? わかりやすく解説

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第一次川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

武田信玄」の記事における「第一次川中島の戦い」の解説

天文22年1553年4月村上義清北信豪族要請受けた長尾景虎本格的な信濃出兵開始し以来善光寺平主導権を巡る甲越対決端緒となる(第1次川中島の戦い)。 武田軍村上義清葛尾城を落とす。この後武田軍5月更科八幡戦いにて村上義清敗れ葛尾城奪還される。9月武田軍塩田城を落とす。武田軍先鋒9月布施の戦いにて撃破された。上杉謙信信濃領内侵攻し荒砥城虚空蔵山城を落とし青柳城苅屋原城攻めた武田晴信決戦避けたその後景虎も軍を積極的に動かすことなく両軍ともに撤退した同年8月には景虎支援受けて大井信広武石城主)が謀反起こすが、晴信はこれを直ち鎮圧した

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第一次川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「第一次川中島の戦い」の解説

天文21年1552年1月関東管領上杉憲政相模国北条氏康領国の上野国を攻められ居城平井城棄て景虎頼り越後国逃亡してきた。景虎憲政迎え御館住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった8月景虎平子孫三郎、本庄繁長等を関東派兵し上野沼田城攻め北条軍撃退、さらに平井城平井金山城奪還成功する北条軍率い北条幻庵長綱上野国から撤退武蔵国松山城逃れた。なおこの年4月23日従五位下弾正少弼叙任される同年武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国追われ信濃守護・小笠原長時景虎救い求めてくる。 天文22年1553年4月信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争敗れて葛尾城脱出し景虎援軍要請した。義清は景虎援軍与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣同月武田軍八幡の戦いで破ると武田軍村上領から駆逐し葛尾城奪還する。 しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再び晴信自ら大軍指揮を執って村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐決意し、ついに8月、自ら軍の指揮執り信濃国出陣30日布施の戦いで晴信軍の先鋒圧倒、これを撃破する9月1日には八幡でも武田軍破り、さらに武田領内深く侵攻し荒砥城虚空蔵山城を攻め落とし青柳城放火した。これに対し晴信は本陣塩田城に置き決戦避けたため、上洛予定があった景虎深追いをせず、9月越後引き上げた(第一次川中島の戦い)。 天文22年1553年9月初めの上洛を果たし後奈良天皇および将軍足利義輝拝謁している。京で参内して後奈良天皇拝謁した折、御剣天盃下賜され、敵を討伐せよとの勅命受けたこの上時に堺を遊覧し、高野山詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)の下に参禅して受戒し、「宗心」の戒名授けられた。

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