勢力回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)
九州を追われた平氏は、阿波国の田口成良の支援により何とか四国に上陸する。この時、義仲軍は妹尾兼康を討って備中国まで進出していた。宗盛は戦闘を回避するため、義仲に使者を送り「今に於ては偏に帰降すべし。只命を乞はんと欲す」と申し入れるが、義仲は応じなかったらしい。閏10月1日、平氏軍は四国渡海を試みる矢田義清を水島の戦いで破り、義仲軍の進撃を食い止める。さらに後白河法皇と頼朝の提携を聞いた義仲が京都に急遽引き返すという幸運にも恵まれ、宗盛は屋島に内裏を建設して新たな本拠地とした。これにより平氏は、東の屋島、西の彦島を押さえて瀬戸内海の制海権を掌握し、勢力回復に成功する。 宗盛は義仲軍が撤退すると反攻に転じ、閏10月中旬には早くも海を渡って備前国に進出する。 11月29日には室山の戦いで源行家を破り、播磨国・室の津を支配下に置いた。一方、法住寺合戦で後白河法皇を幽閉した義仲は、頼朝と対決するため平氏との和平を模索するようになっていた。12月頃から本格化した交渉は、翌寿永3年(1184年)正月には「和平の事已に一定」という段階まで漕ぎ着けるが、土壇場で「義仲が後白河法皇を北陸に連れ去るという風聞」「義仲軍による平氏郎従の殺害」「行家の平氏への敵対行動」が問題となり、結局は実現しなかった。孤立無援となった義仲は、正月20日、範頼・義経軍の攻撃により敗死する。
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