植民地問題
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詳細は「第一次インドシナ戦争」および「アルジェリア戦争」を参照 一方で植民地支配には限界がおとずれ、中東およびアジアの植民地は次々に独立していった。インドシナでは1945年から1954年にかけて第一次インドシナ戦争が発生し、ジュネーヴ協定で撤兵した。さらにインドシナに続いてチュニジア、モロッコも同様の運動が起こり、チュニジアでは1954年にマンデス=フランス政権によって内政自治権が認められ、エドガール・フォール政権では1955年にモロッコの独立が認められた。一方でインドシナやチュニジアといった地域とは異なり、歴史的にはフランス初の外国植民地であり、国民にとっても特別な思い入れのあるアルジェリアの独立に対しては、その議論は難航し、1954年にはアルジェリア民族主義運動の蜂起を促し、これらの問題によって崩壊したマンデス=フランス政権のみならず、続く1957年5月のギー・モレ政権や翌6月のモーリス・ブルジェ・モーヌリ(フランス語版)政権、さらには11月のガイヤール政権などを崩壊させた。
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植民地問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:06 UTC 版)
詳細は「第一次インドシナ戦争」、「アルジェリア戦争」、および「第二次中東戦争」を参照 仏領インドシナではホー・チ・ミン率いるベトミンが即時独立を要求して、勢力回復したフランス軍に対してゲリラ戦(第一次インドシナ戦争)を展開していたが、1950年に朝鮮戦争が勃発するとアジアで東西両陣営の冷戦が激化し、ソ連や中華人民共和国の強力な支援を得るようになった。1954年5月7日ベトナム北部の要衝をめぐるディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北すると、ピエール・マンデス=フランス首相は7月20日、ジュネーヴ協定を締結してベトナムからの撤退を決めた。 しかし、同年11月にはアルジェリアでフランス支配に対する独立闘争の蜂起が始まり、フランス政府は1955年3月モロッコとチュニジアの独立を承認したが、アルジェリアはフランス系住民も多く、簡単に独立を認めることはできず弾圧を強めた。このためアルジェリア戦争は泥沼の様相を呈し始める。 フランスは、また1956年10月イギリスと共同でスエズ運河出兵を行った(第二次中東戦争(スエズ戦争))が、アメリカ合衆国とソビエト連邦の介入で無残な失敗に終わった。
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