米州植民地問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 14:02 UTC 版)
「ウィリアム・バリントン (第2代バリントン子爵)」の記事における「米州植民地問題」の解説
バリントン子爵はアメリカ植民地の喪失に対する責任があるとされた。1765年に内閣のロッキンガム派が同年に制定された印紙法を撤廃しようとしたとき、バリントン子爵は閣内でそれに反対した少数の人物の1人だった。その後もイギリスの内閣は米州植民地への強硬政策が悪影響を与え、1768年/1769年にアメリカ人がボイコット運動を行いイギリス東インド会社の財政が悪化したほか、1773年にはボストン茶会事件がおきた。ジョン・ウィルクスが庶民院議員への就任を求めたときにはバリントン子爵と陸軍支払長官(英語版)のリチャード・リグビー(英語版)が内閣を率いてウィルクスを追放した。その間にも議会でたびたび演説し、1761年11月から1778年まで175回の演説が記録されている。その多くが戦時大臣の業務に関連するものであり、1772年の王室結婚法など業務と無関係の議題では演説の数が少なかった。 1775年、バリントン子爵はジョン・バーゴイン将軍を北米におけるイギリス軍の指揮官に任命したが、バーゴインは気乗りしなかったという。このとき、バリントンとバーゴインは戦略についての考えで同じ意見を持っており、バリントンは陸軍を担当したが、反乱軍を撃破するにはイギリス海軍を戦略的に展開することが不可欠だったという。バリントンの考えによると、大規模な常備軍と植民地貿易の封鎖を同時に行う必要があるが、郊外でアメリカ人を追い回すことはすべきでないという。しかし、バーゴインは1777年のサラトガの戦いに敗北したことで、本国に召還された。 1775年10月と1776年6月に庶民院から離れることをジョージ3世に申し入れたが、2度とも国王に説得され思いとどまり、1776年9月に三たび申し入れたときは戦時大臣に留任することを条件に了承されたが、首相のノース卿は戦時大臣が庶民院議員でなければならないとして拒否した。そのあと、1777年1月から2月と1777年6月の2度にわたって同じ申し入れをしたが、いずれも拒否された。同年12月にバーゴイン降伏の報せが届いたときは引退の時機ではないと考えたが、1778年3月と5月にも庶民院引退を求め、今度はようやく認められ5月24日に庶民院議員から、12月に戦時大臣から退任した。同年12月16日に公職に就任しないことを条件に2千ポンドの年金を受け取った。バリントンは友人への手紙で「これまでで最も静かな[...]政治上の死を迎えたことを得意に思う」(I flatter myself that no man ever died a more quiet [...] political death.)と書いた。
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