米川とドストエーフスキイ
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「米川正夫」の記事における「米川とドストエーフスキイ」の解説
先述通り、米川の翻訳処女出版は1914年、ドストエーフスキイ『白痴』であり、その後『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』と翻訳を進め、1935年『罪と罰』を翻訳して、ドストエーフスキイ後期5大長編をすべて訳了する。上記の『罪と罰』は三笠書房で企画されたドストエーフスキイ全集に翻訳陣の一人として招かれた際に担当して新訳したものであったが、1941年、陸大退官後の米川は次の仕事を必要としたことと、翻訳に専念する時間をとれるようにもなったことなどから、個人全訳での『ドストエーフスキイ全集』翻訳を企画、岩波書店に企画をもちこみ、出版契約がまとまる。だが戦時体制が強化される中、全集出版のための用紙が確保できず、計画は中止せざるをえなくなった。しかしほぼ時を経ずして、計画の頓挫を聞きつけた河出書房が版元に名乗りをあげ(社長・河出孝雄自らが出版させてほしいと米川に申し入れたという)、新たに河出書房と契約を締結する。こうして全30巻(別巻1)の予定で、同年12月、全集刊行が開始される。この全集のために米川は『貧しき人々』『虐げられし人々』などを新訳している。しかし1943年、戦意昂揚の出版物刊行が最優先される状況下で全集刊行の続行は困難となり、13冊を刊行した時点で出版計画は中止が決定される。ただ米川は、刊行途絶の後も個人的に『作家の日記』翻訳を続けており、再起しての全集完成に向けた彼の情熱を窺い知れる。『作家の日記』翻訳は北軽井沢での疎開生活でも続けられて、終戦を迎えた。 『作家の日記』を米川がほぼ訳了した1945年10月、河出書房が戦後版全集の刊行を申し入れ、翌46年6月、米川2度目のドストエーフスキイ全集の刊行が開始される。戦後の深刻な物資不足は紙も例外ではなく、終戦後爆発的に高まった書籍需要への対応が追いつかない状態で、米川版第2全集も初回版と比べて1冊あたり約半分の厚さ、また紙質もかなり質を落としての刊行を余儀なくされ、全50巻予定で刊行が始まっていた。この全集の際に米川はドストエーフスキイの全創作作品を訳了、刊行を果たした。ただし発刊当初は好評に推移していた売行きも、刊行が長期化する中、物資不足が立ち直りをみせ、1950年代に入って用紙、造本ともに上質な書籍が増加したことで、第2全集は採算が覚束なくなり、43冊を刊行した時点で、「書簡集」などを残して1951年4月にまたも続刊中止のやむなきに至った。 しかし河出書房も同年のうちにすぐさま新全集を企画、上質紙を確保、豪華な装幀に変更して、1951年8月、改めて米川個人全訳による第3次ドストエーフスキイ全集を刊行開始する。今回は1巻あたりのページ数を第2全集の倍以上に増やして全18巻での企画であり、1953年9月に完結。戦前からの米川の執念が漸く結実し、それまでの翻訳人生の集大成をここで一旦果たすこととなった。
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