計画の頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:24 UTC 版)
試作車10両1本が1957年(昭和32年)に登場し、12月から営業運転を開始したが、すぐに使用電力の多さが問題になり、限流値の抑制により加速力を抑えて運転することになった。 応荷重装置を用い限流値を空車時350 A - 満車時480 Aにすることで乗車効率に関わりなく起動加速度を3.2 km/h/sとする運転方法は、5ユニットによるピーク電流が5,600 Aにも達することと、架線がシンプルカテナリーでありパンタグラフが2両に1つとなり集電量が増加したことによる架線温度上昇の問題が出たため全性能運転ができず、応荷重装置を未使用にして限流値を乗車効率に関わりなく280 A固定とすることで、ピーク電流を編成あたり3,650 Aに抑えて運転することになった。そのため起動加速度は乗客数によって変化した。 このため、全電動車編成でありながら付随車を従えて走る旧形電車と性能面では変わらなかった。翌1958年(昭和33年)3月に量産車が同じく全電動車10両で同線に投入されたが、試作車の投入時と状況は変わっておらず性能を十分に発揮できなかった。 10M・100 %乗車時の起動加速度は約2.2 km/h/sであり、旧形電車の6M4T・100 %乗車時の起動加速度は約2.0 km/h/sである。 当時は車両を作っても増発分で手いっぱいで老朽車の置き換えが滞っていた。編成全車が製造費用の高い動力車でありながら性能を殺して運転するのは非効率であることから、1958年11月より全電動車編成をやめ、中間に2両の付随車を入れた。付随車を入れた編成は限流値を350 A固定まで引き上げたが、動力車が減ったため起動加速度は全電動車時代と大きく変わっていない。このとき製造された付随車は将来的に電気設備などが増強された際に容易に電装改造ができるような構造としていたが、全電動車編成による高加減速高速性能という当初の思想は後退することになった。
※この「計画の頓挫」の解説は、「国鉄101系電車」の解説の一部です。
「計画の頓挫」を含む「国鉄101系電車」の記事については、「国鉄101系電車」の概要を参照ください。
- 計画の頓挫のページへのリンク